この国には、死がない。 それでも、血は流れていた。 「――死体、か」 その声には、感情のようなものがほとんど含まれていなかった。だが、耳に残る微かな濁りが、状況の異常さを静かに物語っていた。 刑部省の官人たちは、かすかな慌ただしさを帯びてその場に集まっていた。濃い官服が、朝の霞のなかで沈んだ影のように揺れる。 「神祇伯殿が、こんな穢れた場へお越しになるとは……」 「通りすがっただけだ。気にするな」 男は視線だけを地面に落とす。土に触れた袖は、その下に横たわるものの生の名残を無言で吸い取っているようだった。 官服の色からして、人事を司る式部省の者か。 男女が寄り添うように倒れ、唇の端から、深く沈んだ紅が流れ出している。 男の腹部には裂けた痕があり、そこから染み出した赤が衣の文様を染め直していた。女の顔は穏やかで、痛みに抗った痕跡はない。ただ、そこにあったのは、思いがけず訪れた「終わり」に対する、微かな違和のようなものがある。 血は温度を失い、地に吸い込まれていく。冷たい朝の空気の中で、それすらもただの風景の一部に過ぎなかった。 いずれにせよ、これまでにない事態に彼らの声は震えていた。 「……我らも、こうしたことは初めてで」 この国では、死が日常に存在しない。 人は老いず、病に倒れず、死という概念さえ曖昧なまま、数千年を生きてきた。ただ一つ、命を断つもの――それは致命的な外傷のみ。だからこそ、これは、現実のほころびだった。 「状況から見るに、心中かと……。ただ、一方の遺体に外傷が見られず」 沈黙が地面に落ちた。男の眉間にわずかに刻まれた皺が、考えの深さと同時に、苛立ちをも滲ませている。 脇に転がる短刀が、一筋の光を反射した。誰も手を伸ばそうとしないその冷たい鉄に、場所の空気がまた一段冷え込む。 「実践刀の携帯は……有事のみと、定められていたはずだ」 男の声は静かだが、その語尾には乾いた怒気が滲んでいた。 官人らは口をつぐんだまま、動けないでいた。ただ、その手がわずかに震えている。 ここでは、刃物ひとつすら「武器」として存在することは許されていない。たとえ調理用の包丁であっても、それは記録に管理され、持ち出しには許可がいる。武器とは、死を運ぶからだ。死を忘れたこの国にとって、それは最大の禁忌だった。 「はい……。この短刀も、記録には存在せず……。それどころか、製造起源が不明で……治部省の話では、短命種が持ち込んだ可能性があると」 「――短命種、だと?」 その言葉に、空気が硬直した。男の目が細くなる。 官人の喉がかすかに鳴った。言葉は形を成す前に砕け、空気の中に消えた。 「……なんだ?」 男の声は穏やかだったが、それは無色の油のようだった。火がつけば燃え上がることを誰もが知っている――そんな間。 「この一件を受け、兵部省が――日常における帯刀の許可を、殿下に願い出ておいでです」 沈黙。続いて、舌打ち。 「……やれやれ。刀を持てば頭まで冴えるとでも思っているのか?」 この国の守りを任された兵部省にとって、武器を扱えぬという矛盾は、耐え難いものであった。形式ばかりが重なり、刃は鞘に入ったまま錆びていく。ときの左大将は剛毅な人物と聞く。力を封じられた虎のような男だという噂もある。 だからこそ、今回の事件は、彼らにとって扉のきしみ音に等しかったのだろう。 「……たかが刃物に、ずいぶん神経質なんだな」 ずっと黙していた青年が、ふいに口を開いた。 声は柔らかかったが、その柔らかさは無関心のそれに近かった。微かな皮肉を含んだ響きが、場の空気をわずかに波立たせる。 「随分な物言いだな。この国で刃物が何を意味するのか、お前には理解できていないらしい」 「ああ、理解に苦しむな」 青年は淡々と返しただけだった。 男は、ふっと視線を落とし、低い声で言った。 「――道具に意味を与えるのは、それを使う者の意思だろう?」 青年は目を逸らした。まるでその言葉に、聞き覚えがあったかのように――あるいは、聞きたくなかったかのように。