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烏有辿行 宮階

第二話 その青年、名を持たず

   ――時はすこし遡る。  その日、霧の奥で鴉が一羽、啼いた。  天上の都に棲むはずのないその黒い影は、どこか嘲笑するように飛び去った。  その瞬間、微かに、空気の流れが変わった。  誰も気づかぬまま、朝が来る。  明け方の霧がまだ薄く漂い、世界は白い紗に包まれていた。木の香と湿り気を帯びた板張りの廊下が、すこし軋みながら二人の官人の歩みを伝えていた。  先を歩くのは黒髪の男だった。濃紺の袍をぞんざいに身にまとい、整えられぬまま乱れた黒髪を無造作に掻き上げ、大きな欠伸をひとつ漏らす。その気怠げな仕草にも関わらず、どこかふてぶてしい自信と飄々とした佇まいが彼を覆っていた。 「まったく、朝っぱらからこの湿気とは」  大げさなため息交じりにぼやく男の背後を、一定の距離を保って白髪の青年が静かについてゆく。  青年の髪は夜明けの光を受け、絹のようにしっとりと煌めいていた。  白の袍を纏った肢体は細く、動くたびに袖が風を孕んで揺れた。そのひと振りまでもが、意図されたかのように優雅だった。  顔立ちは息を呑むほど整い、透き通った瞳は光を捉えるたびに神秘的な輝きを見せる。だが、その美貌には儚げな影が差し、どこか冷めた空気を漂わせている。  二人が渡殿を歩くたび、周囲の宮女たちが小さな感嘆の声を漏らす。  その視線の先にあるのは、当然ながら白髪の青年だった。  視線を意識してか、黒髪の男がわざとらしく手を振ってやると、彼女らの顔から途端に羨望が剥がれ落ち、何か忌々しいものを見たかのように眉を顰めて早足で立ち去った。  男が振り向きざま青年を睨むと、青年は面倒くさげに目を逸らした。その仕草さえ絵になる美しさが、男の気分を余計に損ねているのは確かだった。  柔らかな陽光がやがて渡殿を照らし始める頃、廊下の正面から凛とした足音が聞こえてきた。  黒髪の男は足を止め、ひらりと手を広げ、芝居がかった恭しさで一礼をした。 「いやはや、殿下ともあろうお方が、このような時間から邸内をうろついているとは。さぞお忙しいお立場かと思いましたが?」  皇女は足を止めることなく、冷淡な眼差しで黒髪の男をちらりと一瞥した。  彼女は厳かながらも堂々とした様子でゆったりと近づいてくる。優雅な所作は隙なく整えられ、ただそこにいるだけで気品が溢れる。  隣には長身の侍女が控え、その一歩後ろを歩いていた。彼女の動作にも無駄がなく、影のように仕えることを心得ていた。 「忙しいからこそ、こうして歩いているのよ。――で、あなたこそ何の用?」  皇女は足取りを緩めることなく淡々と言い返す。 「何の用、と仰いますか」  男は芝居がかった表情で悲しげに肩を落とす。 「実に冷たいお言葉ですなあ。私はあなたの忠実なる家臣。用などなくとも、お声がけしたいと思ってしまうこともあるのですよ?」 皇女はふと足を止め、男の顔を横目で見た。 「……あなたの言葉ほど軽薄なものはないわね」 「酷い言われようだ」  黒髪の男はわざとらしく瞼を押さえ、深く嘆息する。 「殿下のためを思い、日々頭を悩ませているというのに」  彼女は立ち止まったまま、わずかに振り返る。 「悩まされているのは、周りの者たちでしょう。  ――ねえ、神祇伯殿?」    皇女の言葉に、男は口元に手を添えたまま瞳を細め、面白そうに微笑んだ。 「これは参りましたなあ。しかし、殿下のそういう容赦ないご発言も私は嫌いではありませんよ」 「全く堪えていないようね」  皇女は、男に振り回されることに慣れているかのように冷静に言い返す。 「――ああ、そうだ。皇女様に紹介したい者がおりまして」  高窓から差し込む光が、磨かれた白木の床を照らし、皇女の衣を淡く染めた。  彼女の視線は、男の背後に控える青年へと移った。    彼の長髪は月光を溶かしたかのように、背に沿って流れていた。  立ち姿は、威圧感こそないが、どこか整いすぎていて――不自然なほど隙がない。  奥でゆれる白絹の几帳が、空気の流れをそっと示していた。   「こちらは私の新しい従者でして」  青年と目が合った。  彼の瞳は、氷のように澄んでいるのに、どこか奥底が見えない。  しかし、それが理由ではない。  皇女は、ほんの一瞬だけ、その息を詰めた。だが、それを悟られるわけにはいかない。   「……そう」  声は、いつも通りだった。 「あなた、名前は?」 「ない」  青年は、あっさりと言い放った。  その態度に、侍女が一瞬だけ息を呑む。皇女は、まばたき一つせず、青年を見据えた。 「道具に名など必要ない」  涼やかな声。  一点の迷いもない、揺るぎのない口調だった。  皇女は、それを聞いてわずかに目を細める。その仕草には、いつも通りの気品が宿っていた。 「……ならば、務めを果たしなさい」 「言われるまでもない」  黒髪の男は、まるで何かを見抜いたかのように、ゆるりと肩をすくめた。 「殿下、ご安心を」  彼は、軽く扇を仰ぎながら、余裕たっぷりの声音で続ける。 「この者、変わり者ではございますが、腕は確かでございます。見目の良さは……まあ、おまけのようなものでしょうが」  皇女の指が、ほんのわずかに動いた。 「失礼」  男は、飄々と微笑む。 「とはいえ、殿下が気になされるほどではございませんよ。決して、夜眠れぬほどのことではないでしょう」 「ええ、もちろん」  皇女は、まったく動じることなく答えた。  男は、その反応に満足したように微かに笑い、扇を閉じる。 「それは結構」  皇女の隣に控えた長身の侍女が男を睨みつけた。  男はそれを余裕たっぷりに受け流した。 「おやおや、睨まれる覚えはないのですがね」 「あるでしょう」 「……やはり、ございますか」 「当然です」  冷ややかに告げられ、男は肩をすくめた。男の目はどこか苦々しげだったが、皇女は特に気にすることなく一瞥する。 「あなた、他に言うべきことは?」  男は、すました顔で頭を下げた。 「いえ、もう十分かと」 「ならば、これで終わりにしましょう」 「かしこまりました」  黒髪の男は、一歩下がり、深く一礼する。  皇女は静かに――しかし少し足早にその場を去ってゆく。  その背を見送りながら、黒髪の男はため息をついた。    視線を邸の外へと移す。  眼下には銀色に輝く雲が湖水のように波立ち、遠く下界の峰々や河川が朧に滲んでいる。  ときおり響く微かな雷鳴は、かえってこの国の静けさを深くするばかりだった。 「お前、国を傾けるなよ」  黒髪の男は、歩きながら扇を片手に、横目で青年を見た。  扇の骨がわずかに揺れた。視線は遠く、霧の切れ間の雲を追っている。  七層に分かれた天上界、その最下層――白晶宮。  この静謐な都に、外の気配が差し込むことなど滅多にない。 ――ましてや、あの皇女が誰かに心を留めるなど。 「何のことだ」 「……とぼけるな」  男は足を止め、青年の方を振り返る。  青年は、相変わらず何の感情も見せず、ただ静かに男を見つめた。  皇女は、あくまで平然としていた。動じる素振りもなく、涼やかな声で言葉を返すその姿は、いつもの彼女そのものだった。  けれど、あの一瞬。微かに瞳の奥が揺れたのを、彼は見逃さなかった。  男は、誰にも聞こえぬように小さく鼻を鳴らし、ゆるく扇を閉じた。  何よりも気高くあれと生きてきた彼女。  あくまで皇女の話し相手程度になれば、くらいにしか思っていなかった。  まさか、あの彼女がこの青年に心を寄せるとは。  男は、深々とため息をつく。 「まったく……余計な手間を増やしてくれたな、お前は」  青年は、一瞬だけ沈黙したが、その後、微かに首を傾げた。 「……僕のせいか?」 「お前以外の誰のせいだと思う?」  男は胸中にわだかまる苛立ちを抑えるように、またため息を漏らした。 「おかしなことを言うな。僕を創ったのは、あなた自身だろう。全ての責任はあなたにあると思うが」 「嫌だねぇ最近の若者は。すぐ親のせいにする」 「親じゃない」  青年は即答する。その瞳には、好意も敵意も見えなかった。  男は術士であった。  彼は神祇伯という重々しい役職に就いてはいたものの、その肩書きが示すほど華やかでも、権威に満ちているわけでもなかった。  天帝──絶対的な存在であるその至高神とは、もう幾千年ものあいだ、人間はまともに意思を交わすことすら叶わない。ただ儀式を繰り返し、願いを捧げ、その返事のない沈黙を一方的に聴き続けてきたのだ。  しかし、たとえ神が黙したままだとしても、この男の術力は並ぶ者がなかった。彼の術は静かに冴え渡り、国中の術士たちは畏怖と羨望をもって彼を仰ぎ見る。神との交信が途絶えた世界にあって、彼自身がまるで神意を映す鏡のように人々の前に立ち続けていた。  そんな孤高の術士が、ある日ふと、ほんの戯れか、あるいは何か目的があったのか――気まぐれに創り上げた存在──それが、この青年であった。  人間たちの間に溶け込めるように適度に人に好かれるような、愛嬌ある青年を創ろう、と。  自らの血肉に繊細で透明な術式を丹念に織り込むうち、男の意識はいつしか狂気じみた美の探求に没頭し、ふと気が付けば、青年の容姿ばかりがひどく整っていた。男が創造の集中を解いたとき、自分がもともと意図していたはずの「適度に愛される性格」の部分は、すっかりおざなりになってしまっていた。    その結果、完成したのはこのうえなく美しく、目を奪われるほど魅惑的でありながらも、どこか致命的に性格のバランスを欠いた青年だった。   「名前など要らない」  この世に生まれ落ちて間もない青年が、初めて男に向かって発した言葉だった。  男は自らの気まぐれの結晶を前に、苦笑とも呆れともつかぬ複雑な表情でため息を漏らす。 「私が求めた“人当たりの良さ”とは天と地ほど違うんだがな」  青年は、その日も静かに男を見つめていた。  まるで、自分が何者かなど最初から考えたこともないという顔で。