夜更け、皇女はふと立ち止まる。 その日、政務の報告を受ける前に、妙な胸騒ぎがあった。決して理屈では説明のつかない違和感。誰かが、見えない網を引っかけたかのような、言葉にならないひっかかり。 そして、報せが来た。 ――心中。男女二名。死体発見。現場に刃物。記録にないもの。短命種の可能性。 報告を読み終えた手が、微かに震えた。 瞬間的に言葉を失い、まるで自分の呼吸が一瞬だけこの世界の理からはみ出たような感覚に陥った。 (死……?) 恋に浮かれていたはずの心が、ひやりと静まり返った。 まるで、高熱に浮かされた体に冷水をかけられたように。 この国で、その言葉を聞いたのは何千年ぶりだろうか。 いいや、語られることさえなかった。必要がなかった。死はただの伝承でしかなかったはずだった。 ――この国で人が死んだことなど一度もない。 震える指先を見下ろす。何も掴んでいないはずの手に、今にもその紅が滲んできそうな錯覚があった。 黒髪の男の顔が脳裏に浮かぶ。 あの男なら、きっともう現場に足を運んでいる。すでに、彼なりの推論を組み立て、誰よりも早く真相に近づこうとしている。そしておそらく、何が起きても動じない。 いや、動じているのかもしれないが、それを見せない。それでもわかる。彼が今、腹の底で燃やしている怒りの形を。 だが、それよりも心を刺したのは――別の人物だった。 白銀の髪。あの青年。 彼の顔が、心の中で浮かぶ。 どれだけ人を魅了しようとも―― あの青年の背後に横たわる深い闇を、皇女は無意識に感じ取っていた。 それでも、どうして、目を離せないのか。 (彼なら、死を見ても驚かないのかもしれない……) そう思ってしまった自分に、恐ろしさを覚えた。 それは、自分が“彼は我々とは違う”と、どこかで認識していたことの証明だった。 そして、同時に思い知らされる。 (私は……彼に惹かれていた) ただ美しいからではない。言葉少なな振る舞いでもない。 ――彼の『揺らがなさ』に。 彼はきっと、血の匂いに震えない。死の気配に、目を背けない。 どうして。知りたい。 あの方が何を考えているのか。 何を抱えているのか。 あたりまえの世界の全てが、彼の存在で塗り替えられていく。 風に揺れる袖を握りしめながら、彼女は誰にも聞こえぬ声で呟いた。 「……私は、愚か者ね」 咲き始めた早春の花々が、仄かに甘い香を漂わせている。 それなのに、彼の姿が脳裏をかすめた瞬間、香のすべてが色を失った気がした。 このままでは、彼はこの世界からこぼれてしまう。 だれも気づかないまま、名も持たぬまま、 “彼”という存在そのものが、どこかへ消えてしまう気がした。 それが、たまらなく――怖かった。 もし、誰の記憶にも残らず、名すらないまま、この空の彼方に消えてしまったら。 「……嫌だ」 たった一言。なのに、自分の口から出たことに驚いていた。 恋とか、憧れとか、そんな言葉では足りない何かが、自分の中に芽生えている。 「……私が、名前を呼べるようになるなら」 それがどんな結末を呼ぶとしても。 彼を、このまま終わらせたくなかった。