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烏有辿行 宮階

第五話 問いを携えて

 あの報せの翌日、皇女はそっと宮を抜け出していた。  誰もが変わらぬ日常を続けている。けれど、自分の中にだけ、何かが静かにずれ始めていた。 「死」が存在するというその事実が、彼の存在が、世界の輪郭を歪めている気がして――  確かめたかった。ただの気のせいなのか、それとも。  ◇  雑踏の片隅、香の残り香がわずかに漂う女の姿があった。  衣の色合いは、薄桜に蘇芳をひとしずく垂らしたような淡くも艶やかなもので、街に馴染もうとしていながら、どうにも隠しきれぬ気品がその輪郭に滲んでいた。 「…………何をしておいでで? 殿下」  皇女は、咄嗟に布包みを胸元に抱え直した。  肌を刺すような男の声音に、ごく小さく身じろぎした。  声は静かで、しかし微かに冷えていた。背後より現れた男は、墨染めの衣をきちりと着こなし、その瞳には憂いの翳が差している。 「春――」  その一音に、男の名が込められようとした瞬間、声がかぶさった。 「今は公務中ですので、その名を呼ぶのはお控えいただけますか」  男はため息交じりに、静かに続きを口にする。 「侍女も連れずお一人で市井散策とは、皇女殿はいつから町娘になられましたのかな」 「ちょっと、買い物に……」  女がそっと抱える布包みを、男の視線が鋭く捉える。 「ほぉ、これは……物語ではないですか。こんなものがご入用で?」 「き、気になって……」  その答えは、言い訳にしか聞こえなかった。  けれど、男の目には、彼女の瞳の奥に踏み込まずにはいられない思いが宿っているのが見て取れた。 「いい加減ご自身のお立場をご自覚いただきたい」  男の言葉はまるで、雪解けの水が冷たく指先を打つようであった。 「……市井に出ることは、伝えていたはずです。わかっていて、出てきたのでしょう?」  声は責めるようでいて、どこか諦めにも似た色を帯びていた。 「ええ。また叱られるのは承知の上です」  皇女はいたずらを仕掛けた子どものように笑う。 「私を叱るのは、あなたの役目でしょう?」  その言葉に、男は一瞬だけ黙し――そして、静かに言った。 「……叱ることしか、私にはできませんので」  そんなふたりの間を、青年がじっと見つめていた。言葉の機微も、立場の重さも知らぬ者だからこそ、素直に問うたのだった。 「二人は……仲がいいのか?」  唐突な問いに、男は目元をかすかに変えた。 「……唐突だな。お前にはそう見えるのか?」  どこか呆れたような口調に、青年が首をかしげる。 「会話が自然だった。言い合ってるように見えて、ちゃんと噛み合ってる」 「最初に会った時も、そうだった」  皇女は少しだけ目を見開き、すぐにぷいと視線を逸らした。 「――そのように見えたなら、それは私が譲ったからです」 「おや、それは心外ですな。私は常に、殿下のお気持ちを最優先にしておりますが」  男の口調はあくまで丁寧で、けれど明らかに皮肉が混じっていた。 「……それで、私たちに何かご用件があったのでは?」  男の問いに、皇女はわずかに視線を遠くへと逸らし、それから静かに口を開く。 「神祇伯。あなたは、この国の正史を……どうお考えですか?」  不意の問いに、空気が一瞬、硬くなる。 「……何を、急に」  男が眉を寄せた。 「最近、史官たちの記す“正史”に、奇妙な齟齬があると聞きました。  そして……この書物は、その史官が書いた“史”を元に綴られた物語だそうです」  皇女が抱える布包みをそっと開く。表紙には、どこか神話めいた古い物語の名。 「この中では、一人の女が、天を離れ、下界へ降りる――そう描かれています」  男の目が、ほんの少し見開かれる。 「……物語は物語です。殿下は、正史を見失われましたか?」 「いえ。ですが、どうも――正しいはずの記憶と、書かれたものとの間に、微かなずれがあるように思えてなりません」 「その正体を、あなたならご存じなのではないかと。……そう思ったのです」  一拍の沈黙。  男は口を開きかけたが、ふと口元に静かな笑みを浮かべた。 「……恋煩いも、ほどほどになさいませ」 「――は?」  眉をひそめた皇女に、男はわざとらしく視線を逸らし、隣に立つ青年を見やった。 「この者に惚れておられること、私が気づかぬとでも?」 「な……!」  思わず、皇女の声が上ずる。 「会いに来る理由としては、少々強引に過ぎますな。内容が内容ですから。まるで、彼に見せかけた告白のようだ」 「ち、違います! そんなつもりじゃ……!」  そう言いながら、皇女は一歩だけ男から距離を取るように後ずさった。  けれどすぐに、それが逃げのように思えて、唇をきゅっと噛みしめた。 「本当に?」  男の声音は柔らかいままだが、その奥には冷ややかな揶揄が混じる。  皇女の心がざわめいた。 「まったく……もう少しご自身のお立場をご理解いただけませんと、ねえ」 「……そんなこと、言われなくても、分かっています……」  小さく呟くように言った後で、皇女は自らの言葉を噛み潰すように首を振った。 「いえ、そうではなくて! 違う、私が言いたいのは……!」 「ふふ、話を逸らすのはあなたの悪い癖ですよ。小娘の恋慕など、王の血には似合わない」 「――あなたはいつも、そう!」  怒気の混じった声が、空気を裂いた。 「そうやって、大事な話をからかいや皮肉で覆い隠して……! 私が本気で向き合おうとしているのに!」  その言葉に、男の笑みは消えなかった。  ただ、ほんの少し――声の調子だけが変わる。 「――それは、果たしてどちらの話を指しておられるのか」  皇女は、男の目を真っ直ぐに見返した。  その視線には怒りも、悲しみも、そして何より諦めきれぬ問いが宿っていた。  やがて、彼女はゆっくりと息を吐く。  その吐息には、言葉にならない感情が淡くにじんでいた。 「……わかりました。今日のところは、これ以上は申しません」  言葉はあくまで穏やか。だが、その声音には冷えた刃のような棘があった。 「正史のことも、物語のことも……そして、あなたが隠していることも。  いずれ、改めて――問わせていただきます」  皇女は布包みをそっと胸元に抱き直し、青年に一瞬だけ視線を向けた。  一歩を踏み出す前、足元でためらうように立ち止まる。  その一瞬のためらいに、彼女の未練と覚悟が滲んでいた。  衣の裾が音もなく揺れ、人混みの中へとその姿は消えていった。  男は、手を伸ばしかけて――静かに下ろした。    呼び止めるには、あまりにも遅すぎた。