皇女の姿が人混みに溶けた直後、男と青年はしばしその場に立ち尽くしていた。 風がひとつ抜ける。誰も言葉を発さぬまま、時が過ぎる。 やがて、通りをゆっくりと歩き出しながら、男がぽつりと漏らした。 「……めんどうだな、市中見聞など」 男は眉を顰め、袍の袖を風に揺らした。 市は今日も、喧しく息づいていた。 干した薬草の匂い、串焼きの焦げた匂い、炊き立ての白米の湯気、濡れた土に日の当たる匂い――それらが空気の層となって、背の低い庇と軒先の隙間を縫って流れていく。 「あなたは引きこもってばかりだろう。たまには、外の風にあたるのも良い」 「人が多いのは苦手だ。雑音に満ちている」 男は顔をしかめ、鬱陶しげに言い捨てた。 だが、青年の目に映るこの街は、むしろ――喧騒の奥に確かな熱を宿していた。 人々の声が交差する。 値をまけろと叫ぶ声、売れ残りを叱る声、手綱を引く男の荒声、風に乗って笑い声。 活気とはつまり、無数の思惑がぶつかり合い、すり減り、くすぶりながら共に息をすることだ。 青年の涼やかな目元に、少しだけ皮肉が混じる。 「その“人”を調べるのが、今日の任じゃないのか?」 男は鼻を鳴らす。 「こんなものが、神祇官たる私の務めだと?」 「それを言うなら、そもそも政に口を挟むことも、あなたの務めではないだろう」 その一言に、男の顔にわずかな翳りが差した。 「太政大臣なき今、政の場には空白が多すぎる。私が口を挟むのは、空白を埋めるためだ。でなければ、もっと始末の悪い連中が手を伸ばしてくる」 市井見聞――それは表向きには政の一環として、民の暮らしを観察するための任だった。 だが実際には、政から男を遠ざけるための方便にすぎない。 男は吐き捨てるように言った。 「周囲は面白くないだろうな。老いた狂言回しが、いつまでも舞台に残っているようでな」 「……あなたは、年寄りなのか?」 青年は不思議そうに首を傾げた。 年寄りというのは、背を丸め、声も枯れ、体の節々をさすりながら歩くものだと、彼は思っていた。だが、目の前の男には、老いの影はどこにもなかった。 「ああ、もうだいぶ生きてきた。そろそろ、お前のような若者には労ってもらいたいものだ」 男は冗談めかして言ったが、その声音にはどこか真実の重みがあった。 「長命種は、ある年齢を境に、肉体の老いが著しく緩やかになり、やがて、ほぼ不変となる。見た目など、とうに時間の流れと無縁だ。あの皇女も、もう数千年は生きている。……とはいえ、私から見れば、まだまだ小娘だがな」 男はわずかに目を細め、どこか遠くを見つめた。 「お前も一応、長命種という扱いなんだ。知っていなければ不自然だろう。それくらいは覚えておけ」 そして、ふと、語りかけるように呟いた。 「下界には、短命種と呼ばれる者たちがいる。彼らは我々が一歩進む間に、老い、病み、死んでゆく。……まるで燃え尽きる灯のように」 二人の横を、子どもたちが走り抜けて行く。 「ここにいる者も皆、長命種だ。――短命種など久しく見ていない」 空には鈍色の雲がゆるやかに流れている。 石畳の隙間に溜まった砂を指先でかき回しながら、子どもはしゃがみこんでいた。 手のひらに収まるほどの滑らかな小石を選び、土の上に並べては、一本の木の枝でその周囲をなぞる。 それは何かの陣のようでもあり、単なる遊びの痕跡のようでもあった。 「この前、空に黒い鳥がいたんだよ」 そう言いながら、子どもは一つの小石をつまみ上げ、ぽとりと別の石に落とした。 石が重なる、乾いた音が一つ響く。 続けて、今度は立ち上がり、足元にある大きめの石を軽く蹴った。石はコツンと転がり、石畳の間に止まる。 「なに言ってんの、鳥なんていっぱいいるじゃん」 もう一人の子が、遠慮のない声で返す。 だが、最初の子は気にするふうもなく、またしゃがみこむと、ひとつだけ、黒ずんだ小石を拾った。 その表面を親指でそっとなぞりながら、ぽつりと続ける。 「でもね、あの鳥、ずっと動かなかったんだ。空のいちばん高いところで、じっと、見てたの」 その声には、遊びの中には似つかわしくない静けさがあった。 男はふと立ち止まり、空を仰ぐ。 そこには何もいなかった。ただ、鈍色の雲が重たげに流れている。 「……黒い鳥、か」 彼の呟きは風に消えた。