月が渡殿の欄干を白く照らしていた。冷えた空気が衣の裾をわずかに揺らし、白砂の庭に影を落とす。 黒髪の男が、長衣を引いてゆるりと歩む。その後ろに控えるのは、白銀の髪を持つ青年。無言のまま、男の歩調をぴたりと守っていた。 やがて、向かいから歩み寄ってきた官人がひとり。 国の財政を司る大蔵省の長官――大蔵卿。 肩にかけた衣の金糸が月明かりにちらと光る。 「最近、よい腰巾着を連れ歩いておいでだとか――風の噂で耳にしましたぞ」 言葉は柔らかいが、明らかに毒を含んでいる。 男は立ち止まり、わずかに目を細めた。 「腰巾着とは随分な。これはただの従者ですよ。……もっとも、そちらには耳の早い官人というのも控えておられるようですが」 大蔵卿は目を細め、口元に薄い笑みを浮かべた。 「優秀な猟犬ほど、遠くの獲物の匂いをいち早く嗅ぎつけるものですからな。……ところで、私の記録では、かの従者殿には正式な籍も出自も見当たりませぬが。――はて、どこぞの神隠しにでも遭ったのでしょうか」 大蔵卿はわざとらしく首を傾げる。 男はそれに臆することなく、静かな視線で返した。 「ほう、大蔵卿とあろう方が、他人の従者などをお調べになろうほど暇でいらっしゃるとは。そんな些事に手を煩わせるより、財政の方を心配なされたほうがよろしいのではありませんか? このところ、民の怨嗟の声が風に乗って宮中まで届いておりますゆえ」 静かな毒を含んだ言葉に、大蔵卿の目にほんのわずかな険が浮かぶ。だが、すぐに穏やかな表情を取り繕った。 「財政というものは根を張る庭木の如きもの。目に見える枝葉ばかりを気にかけても、根が朽ちれば、たちまち倒れましょうぞ。……根の下に何が潜んでいるか、時には掘り返して確かめねば」 「根を掘り返しすぎて、大切な木そのものを枯らしてしまっては、元も子もございませんよ。……せめて、土に巣くう虫どもをひとつまみ潰すくらいに留めておかれるのが宜しかろう」 大蔵卿は目を細めて笑う。 「ふふ……虫にも色々おりますからな。表面にいるものもあれば、奥底に潜んで見えぬものもある」 「地表を這いまわる虫であれば、わざわざ掘り返さずとも、簡単に指先で摘めますので。ええ、私のような者でも」 青年は黙したまま、そのやり取りを見ていた。 声のやりとりは静かなものだったが、言葉の刃は抜き身のまま交錯している。 大蔵卿は一歩、男ににじり寄るように近づいた。 「――それにしても。近頃、政の場でお姿をお見かけする機会が増えましたな。 まさか、神祇伯殿が俗世の帳簿にまで目を通されるとは」 男は視線を動かさず、扇を一度、静かに打ち鳴らした。 「関心など、持った覚えはありません。ただ……天の座に穢れが這い上がってくるとあっては、見過ごせないというだけのこと」 「穢れ、とはまたご丁寧な表現で。政の本質をご存じない方の言葉に聞こえますな」 淡々とした口調の奥に、男の静かな警告が滲む。 「政が本質的に穢れているというのなら、それを是とすることこそが罪でしょう」 「さすが、理想を語るには不自由しないお立場ですな」 大蔵卿は間を逃さず、さらに言葉を重ねた。 「神祇伯殿……あなたは“人”を見すぎる。国家とは、もっと冷たい装置です。温情を挟む者に、政の中枢は務まりませんよ」 一拍の沈黙。 冷えた空気がさらに澄み、ふたりの間に張りつめた糸のような緊張が走った。 大蔵卿は口角だけを上げて言う。 「やはり神祇伯殿とは、静かなところで話すのが一番ですな。……政の場では、人の目が煩わしい」 「言葉を選ぶおつもりがないなら、どこで話しても同じでしょう。――|狸《・》|殿《・》」 初めて、男の声音にわずかな棘が乗った。 青年が目を見開く。けれど男は顔色一つ変えず、裾を翻す。 「……ふふ。今宵は星がよく見える。政の星も、そろそろ黄昏時ですかな」 「気をつけなされ。夜目の利く獣は、闇でもよく見えております」 言葉の応酬を終え、大蔵卿はその場に留まり、男は静かに歩み去る。 従う青年の足音が、月光にかすかに溶けた。 後ろを振り返ることはなかったが、男は小さく吐き捨てるように呟いた。 「――狸め」