言葉には刃を、夜には目を
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烏有辿行 宮階

第八話 揺り籠のそばに立つ者

 

「……あれは、やりすぎではないか?」

 

 低く押し殺した声に、男はぴたりと足を止めた。薄明の回廊に冷たい風が吹き抜ける。

「うるさい。私にだって、腹が立つことくらいある」

 吐き捨てるような声だった。が、それは珍しく感情の端をこぼした男の、数少ない本音の一つだった。

「……あの男、近いうちに何かやらかす。確実にな」

「敵、なのか?」

 青年の問いかけに、男はほんのわずかに目を細めた。

——違う。正義が違うだけだ」

「善と悪、たったそれだけで人を量れるなら、理など必要ない」

 

 深い沈黙が落ちた。

 青年は少し躊躇ったあと、また静かに口を開いた。

「……おまえが背負っているそれを、誰かに話すことはできないのか?」

 問いは素直だった。愚直なまでに真っ直ぐで、幼さすら感じさせた。

 だが男は、眉一つ動かさぬまま答えた。

「話してどうにかなるものなら、とうに話している。無用な混乱を呼ぶだけだ」

 苛立ちに任せて、扇を勢いよく閉じる。微かな音が、闇に沈みゆく回廊に鋭く響き渡った。

「……ああ、まったく腹立たしい!」

 

 

 

 そのときだった。回廊の脇から、唐突に穏やかな声が響いた。

「まあ、珍しい場面ですね」

 ぎくりとして振り向いた男の顔に、明らかな動揺が浮かんだ。

「……げっ」

 男が思わず情けない声を洩らす。振り向けば、静かに立っていたのは一人の女官。

「……これはこれは、侍女長殿、お見苦しいところを……」

「皇女様には何もお伝えしませんので、ご安心ください」

 穏やかで静かな微笑。男は、珍しく動揺した様子で扇を弄んだ。

 

 青年はその女性に目を留める。長身で凛とした佇まい。特に気になるのは、その頭部に生えた美しい角だった。細く優雅な曲線を描くその角は、薄闇の中でほのかに輝きを帯びている。

 

 青年の視線に気づいた侍女長は、微笑みながら自らの角を指さした。

「……あら、こちらですか? 私は“有角種”と呼ばれる長命種の一種なのです。この白晶宮では私一人でしょうね。珍しいのも無理はありません」

「……あなたはこの国の人ではないのか?」

「ええ、翠晶宮の出身です」

 それを聞いた男が静かに言葉を添える。

「天上は七層に分かれている。翠晶宮はその第四層だ」

 侍女長は静かに頷く。

「私が外交に出ている間に国交が断絶してしまい、もう何千年。祖国が今どうなっているのか……」

 侍女長の瞳にわずかな翳りが落ちる。

「白晶宮は何度か交渉を試みましたが、どれも徒労に終わりました。帰る場所を失った私を、皇女様が拾ってくださったのです。この恩義は一生忘れません」

 男は何かを思うように視線を伏せた。

 

「それは?」

 青年が指差した先には、小さく布に包まれた肌着のようなものがあった。

「ああ。侍女の一人が、子を授かりまして」

 ふっと笑みを浮かべる侍女長の横顔は、どこか母のような優しさに満ちていた。

「この国では、命が終わらぬ代わりに、新たに生まれることも稀になりました。……だから、こうした命は尊いものです」

 男はしばし黙したまま、その布包みを見つめた。

「……いいことだ。何か必要なものがあれば、私に言うといい」

「ありがとうございます」

 侍女長は穏やかな礼をし、再び暗い回廊へと消えてゆく。その背中が夜闇に溶けるまで、男は無言で見送った。

 

 やがて静かな沈黙が戻る。ふたりの間を埋めるのは、遠くでそよぐ木々の音だけだった。

 

 

 

 

 青年はふと男の横顔を見つめ、小さく問いかけた。

 

「あなたに、子はいないのか?」

 男は答えなかった。ただ、少し顔を背けるようにして、夜の空気を吸い込んだ。

 そして、しばらくしてから、ごく浅く——けれど確かに、ため息をついた。

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