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烏有辿行 宮階

第九話 情緒、読みかけのまま

 冬の寝殿は白檀の香に包まれていた。障子戸の隙間から、柔らかな灯りが漏れている。  男は几帳にもたれかかり、膝の上に何冊かの古びた書物を積み上げていた。その眼差しは手元の文字を追っているようにも、ただぼんやりと眺めているだけのようにも見えた。  そこへ青年が無言で障子を開け、ふらりと現れる。青年は無言で男を見下ろす。  青年の気配に、男はゆったりと視線を上げ、少しばかり皮肉っぽく笑って返した。    「おや、これはこれは。創った覚えはあるが、呼んでもいないモノ」 「こんな夜更けになにをしている?」 「……ああまったく、モノには風情の一つも分からないらしい。  ……この前も、泣いてる侍女に“涙は蒸発するだけの水”と言い放ったそうじゃないか」  男は鼻で笑いながらも、目の前の書物のひとつを手に取り、指先でぱらぱらとめくって見せた。 「創った張本人がよく言う。僕は別に望んでこうなったわけじゃない」  青年は少し眉をひそめ、低い声で呟いた。その瞳には、隠せない苛立ちがあった。  男が再び大げさに肩をすくめると、その仕草がやけに芝居がかって見えた。 「ああ、そうさ、創造主としてお前の欠陥は認めよう。認めてやろうともさ。しかし、いつまでもその人格破綻を放置するのは癪に障る。――そこで、だ」    青年は男の手元の書物に視線を落とし、冷淡な声で問いかける。 「……なんだこれは。何のつもりだ?」 「いわゆる『物語』というものだ。人間の感情やら機微やら、くだらない心の動きを描いたものさ」  青年は訝しげに眉を寄せる。 「それを僕に読めと? くだらないな」  男は薄く笑い、青年の瞳をじっと見つめ返した。 「お前の致命的な性格を直すためだよ。人の情緒を知らずして、従者など務まるまい?」  青年はその冷笑を真っ向から睨み返す。 「私が、こうして責任を取ろうとしてやっているんだ。ほら、ありがたく受け取れ」  男は面白がるように笑いながら、書物の一冊を青年に差し出した。 「……それで、本当に僕が変わると思っているのか?」  青年は疑念に満ちた眼差しを男に投げかける。男は皮肉っぽい笑みを浮かべたまま、小さくため息を吐いた。 「お前次第だな。人の心の痛みや喜びが書き記された書物を読めば、多少なりとも人の機微が理解できるかもしれないだろう? ま、期待はしていないがね」  男の声音には微かな諦観が滲んでいる。青年は、相変わらず面倒そうに眉をひそめた。   「……どうしてそんなに『人間らしさ』を求める?」    男は何も答えず、ただ微かに唇を歪めると、青年の手に書物を押し付けた。   「騙されたと思って読んでみろ。案外、忘れられない一節が見つかるかもしれんぞ」    青年は渋々それを受け取り、書物をじっと見つめた後、小さく息をついた。その視線は、表紙にかすれた文字が書かれた古びた書物に落ちていた。男はその様子を見て、小さく笑った。   「せいぜい感情というものを学ぶといいさ。まったく、手のかかる奴だ」    男は残された書物をゆるりと手に取りながら、小さくひとりごちる。その声音は皮肉げだったが、どこか微かに柔らかく響いていた。  青年はわずかに唇を結び、手にした書物を握りしめ、廊下の奥へと無言で歩いていく。