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烏有辿行 宮階

第十話 記されぬ者

――ろうそくの灯だけが揺れる、静かな夜の書庫。  皇女はひとり、書見台に向かっていた。繙いているのは、古びた物語集。  けれど、目は文字を追いながら、どこか遠い思考の海に漂っていた。  皇女は、書物の表紙を撫でながら、そっと目を伏せる。 「……また随分と場違いな読書をなさっている」  背後から声がした。静かに滑るように現れた黒髪の男は、手に馴染んだ扇を弄びながら、壁にもたれている。  彼女は振り返らずに応じた。 「陳腐な忠言なら、今は要らないわ」 「おや、忠言だなんて。私はただ、感心しているのです。政務そっちのけで|名《・》|も《・》|な《・》|き《・》|者《・》の物語に耽るとは……皇女殿下の趣味もなかなか渋い」 「誰が名もなき者の話に耽っていると言ったの?」 「そこにあるのは|名《・》|も《・》|な《・》|く《・》|、《・》|や《・》|が《・》|て《・》|誰《・》|に《・》|も《・》|覚《・》|え《・》|ら《・》|れ《・》|ず《・》|消《・》|え《・》|た《・》|者《・》の話ばかりでしょう。  それとも、今夜はご自身の行く末に思いを馳せておられる?」  皇女はようやく顔を上げ、男に向けて涼やかに微笑んだ。 「それはご安心を。私は、あなたほど孤独ではありませんので」 「ほう。それは頼もしい。ならば、先ほどのような寂しげな眼差しは見間違いでしたかな」  睨むでもなく、流すでもなく。  二人のあいだには、いつものように静かで張り詰めた皮肉のやりとりが続く。     「……また、下界へ落ちた女の話、ですか」    男は壁から離れ、静かに彼女の側へと歩み寄る。    皇女は視線を落とし、宙を見つめるように遠くを見た。 「この話……知っている気がするの。彼女は、とてもやさしい声で。……でも、思い出せない」  まるで霧のなかに立つような感覚だった。記憶が、何かにふわりと包まれている。形はあるのに、つかめない。 「記憶というのは……時に、嘘をつくことがあるのでしょうか」  男はその問いに対し、かすかに笑った。 「記憶が嘘をつくのではない。記憶を弄る誰かが、嘘をつくのです」 「そして……嘘の記憶ほど、人を救うこともある。だから皆、真実から目を逸らして、生きているのですよ」  皇女は、膝の上に置いた書物をそっと抱き寄せた。  その温もりのない表紙を、まるで失われた誰かの代わりのように、指先で撫でる。 ――やさしい声だった。  夢か幻のように淡く、柔らかで、けれど確かに心に触れていた。  その人は、笑っていた気がする。優しい眼差しで。  小さな自分の隣に座り、ひざを抱えるようにして語ってくれた……。  でも――その顔が、声が、まるで霧の向こうに消えてしまったように、どうしても思い出せない。 (どうして……こんなにも懐かしいのに。どうして、名が浮かばないの……)  胸の奥で、淡い痛みが波打つ。  それは思い出せぬ悲しみではなく、“思い出してはいけない”という何かに触れかけている痛みだった。  皇女はそっと目を伏せる。  まつげが震え、口元がわずかにかすむ。 「……では、私は誰かの嘘のなかで、生きているのでしょうか?」  その問いには、自嘲も怒りもなかった。  ただ、純粋な疑問――そして、ほんの少しの、祈りのような何かが滲んでいた。  男はその横顔を、まっすぐに見つめる。  長い沈黙ののち、彼は低く、どこか痛ましげに囁いた。 「あなただけではない。……この国のすべてが、そうして生きていますよ」  それは、きっと慰めではなかった。  許しでもなかった。  自分にも言い聞かせているような声色だった。  皇女は小さく息を吐き、視線を男の手元に落とした。 「あなたが、抱えているものは、何?」  膝の上の衣を指先できゅっと握りしめ、そっと男の顔を仰ぐ。 「どうして、そんなにも、寂しがり屋の顔をしているの?」    男は、何も答えなかった。        少しの間のあと、皇女は静かに語る。 「――名もなく、誰にも呼ばれず、この世から消えていった存在がいたとしたら……」  皇女は顔を伏せ、言葉の最後まで言い切るのに、ひと呼吸を要した。 「それは、初めからいなかったと同じことなのかしら」 「呼ばれることでこそ、誰かは在ることになる。そういう理屈ですか。……ずいぶん詩的だ。あの青年に影響されましたか?」 「もしそうだとしたら?」   「まったく……恋というのは便利な言い訳ですね。思索に耽るのも、涙を流すのも、すべて恋のせいになる」  彼の指先が、無造作に積んであった書物の角を無意味に撫でた。いつもは見せない癖だ。   「――恋では、ないわ」   「……ええ、恋では、ないでしょうね」    男は目を伏せ、優しく微笑んだ。  そこには、どこか哀しげな諦めがあった。 「……あなたは……あの者の名を呼びたいのですね」  静かなひとことだった。だが、皇女の胸の奥深くに、確かに届く言葉だった。   「それでも、本人が名を拒むのです。道具には名など不要、とね」 「私は、そうは思わない」  その声音に、初めて、静かな熱がこもった。  言葉を吐くたびに、胸の内から何かがこぼれ落ちるようだった。 「名を持たないまま、誰にも呼ばれず、誰にも記されず――」 「いつか居なかったことになってしまうなんて、私は……嫌なの」  男はしばし沈黙した。  そして、わずかに扇を下ろす。  衣の裾がふわりと揺れて、書庫の静寂に溶ける。  彼女は背を向け、去っていった。  男はしばらくその背を見送っていたが、やがてぽつりと呟いた。 「……困ったものだ。誰も、ただの傍観者でいてくれない」    男は記された文字に視線を落とし、懐かしむような吐息をこぼした。 「……そうか。まだ、ここにいたか」  それは、もう誰の記憶にも残っていないはずの“名”だった。  男はその名にそっと目を伏せ、静かに扇を閉じた。