夜の終わり。風は音を忘れ、世界はひととき、呼吸を止めたかのように静まっていた。 青年はひとり、渡殿の上を歩いていた。足音すらも沈みこみ、ただ空を見上げる。 白く滲んだ月が、頭上にぽつりと浮かんでいる。 まもなく朝が来るのだろう。その気配だけが、遠くからゆっくりとこちらに向かっている。 「……有明の月ですね」 鈴を転がすような声が響いたのは、そのときだった。 音のない風のなかで、それはどこか夢の底から響いてきたようにも思えた。 振り向くと、回廊の端にひとりの女が腰掛けていた。皇女だった。 薄絹のような月明かりが彼女の白い肌に染み込み、わずかに透けてしまうのではないかと思えるほどだった。その瞳──白藤色の瞳には、夜の残り香のような余白が映っている。 「こんばんは、白の君。それとも……おはようでしょうか」 やわらかく微笑みながら、彼女は問いかける。 「夜は眠れましたか?」 「睡眠は、特に必要ない」 青年はそれだけを、淡々と返した。 皇女はその言葉に、ほんの僅か困ったように目を伏せる。 けれど彼女の声音に責める色はなく、むしろどこか優しい響きを宿していた。 「あなたは……あの月に似ておられますね」 夜が明けようとしているのに、なおも空に残る月。 光に溶けかけながらも、淡く、その名残をとどめている月。 気を抜けばすぐに消えてしまいそうで、それでもなお、そこに在ることを止めようとはしない月。 彼女はその月を見上げていた。 青年を重ねるように、どこか遠い何処かを映す瞳で。 「……有明の月」 青年は小さく、言葉の輪郭をなぞった。 その響きは、夜と朝の狭間にたゆたう光のようで、どこか切なく、それでいて温かかった。 静寂のなかにあるささやかな名。だが、それは確かに何かを照らしている。 「月にも――その姿ごとに名があるのか」 月というものは、ただ一つだ。にもかかわらず、人はその姿に応じて名を変えるのか。 「ええ」 皇女は頷いた。その瞳は優しく、どこか悲しげに揺れた。 「月は夜ごとに姿を変えます。そのたびに、人は名前を与えました。そしてそのすべてに、意味があります。あるいは、祈りと言ってもいいかもしれません」 それは『月』に名を与えているのではなく、その『姿』や『在り方』に、人間自身が意味を見出しているからなのだろうか。 青年はふと目を伏せ、自分の手をかすかに握りしめた。その指先はひどく冷たく、自分のものでないように頼りなく感じられた。彼の中で、なにか静かな波紋が広がっていた。 青年は、再び空を見上げた。 その光の奥に、何かを探すように。あるいは、何かを問うように。 ――名とは、与えられるものなのか。それとも、呼ばれることで生まれるものなのか。 名のない彼にとって、月に与えられたそれらの名は、ただの音ではなかった。それは、存在を肯うための手がかり。記憶の形をなぞるための、静かな灯のようにも思えた。 ――夜が明ける。 東の空に微かな朱が差しはじめ、夜が終わりゆく気配が濃くなってゆく。 再び風が動きだし、世界に音を連れてくる。 遠くの鐘の響き。鳥のさえずり。人の目覚める声──。 それでも、月はまだそこにあった。 淡く、白く。 ひそやかに、確かに、空に在った。 青年はそっと目を細めた。 ◇ 世界が音を取り戻し始めた頃、私はそっと言葉を継いだ。 それは、夜が終わる前にどうしても伝えたかった想いだった。 まだ、あの月が空に残っているうちに。 「……あなたは、ご自分に名がないと仰いましたね」 彼はすぐには返事をしなかった。 ただ、空を見たまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。 長い沈黙が落ちる。その時間が、なぜか痛かった。 「……名は、必要のないものだ」 低く、けれど確かに感情を帯びた声だった。 その言葉に、私は思わず胸を押さえたくなった。 彼がどれほどの孤独の中に生きてきたのか、ほんの少しだけ見えた気がした。 言いかけて、私は一度、言葉を呑み込んだ。 けれど、夜が終わってしまう前に、どうしても口に出さずにはいられなかった。 彼が名を拒む本当の理由を、私は知らない。 それでも、その言葉が心に残した冷たさだけは、確かに感じていた。 名前などいらないと、そう言いきれる彼が、羨ましいと思った。 でも同時に、少しだけ、哀しかった。 呼ぶという行為は、ただ音を発するだけではない。 そこには願いがある。認めたいという想いがある。 「……あなたがそれを望まなくても。私は、呼びたいと思ってしまったのです。 呼ぶことで、あなたがここに居ると、信じられる気がするから」 その言葉は、言うつもりではなかった。 けれど、口をついて出た。 まるで、心の奥からこぼれてしまったかのように。 彼がこちらを見た。 静かな目だった。けれど、その奥で、確かに何かが揺れていた。 私は続ける。声が、わずかに震えた。 「名を呼ぶという行為は……その人の在り方を、心から望むということではありませんか」 彼の銀の髪が揺れ、月明かりがその輪郭を淡く照らす。 「……あなたは、ここに居ていいのだと」 「誰かに、望まれてもいいのだと」 「私は、そう……願いたいのです」 言い終えて、私は目を伏せた。 それが、どれほど身勝手な願いであるか分かっていた。 けれどそれでも、どうしても、このまま終わらせたくなかった。 夜の終わり。 有明の月が、空に淡く残っている。 そしてその光の中、彼はまだ、返事をしていなかった。 けれど、私は気づいていた。 彼の眼差しが、わずかに揺れていたことに。 冷たかったその指が、ほんのすこしだけ、自分の胸元の布を握りしめたことに。 名もなく、ただそこに在った人が。 呼ばれることを、ほんの少しだけ、受け入れようとしていたことに。