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烏有辿行 宮階

第十一話 きっと、あなたは

 夜の終わり。風は音を忘れ、世界はひととき、呼吸を止めたかのように静まっていた。  青年はひとり、渡殿の上を歩いていた。足音すらも沈みこみ、ただ空を見上げる。  白く滲んだ月が、頭上にぽつりと浮かんでいる。  まもなく朝が来るのだろう。その気配だけが、遠くからゆっくりとこちらに向かっている。 「……有明の月ですね」  鈴を転がすような声が響いたのは、そのときだった。  音のない風のなかで、それはどこか夢の底から響いてきたようにも思えた。  振り向くと、回廊の端にひとりの女が腰掛けていた。皇女だった。    薄絹のような月明かりが彼女の白い肌に染み込み、わずかに透けてしまうのではないかと思えるほどだった。その瞳──白藤色の瞳には、夜の残り香のような余白が映っている。   「こんばんは、白の君。それとも……おはようでしょうか」  やわらかく微笑みながら、彼女は問いかける。 「夜は眠れましたか?」   「睡眠は、特に必要ない」  青年はそれだけを、淡々と返した。  皇女はその言葉に、ほんの僅か困ったように目を伏せる。  けれど彼女の声音に責める色はなく、むしろどこか優しい響きを宿していた。   「あなたは……あの月に似ておられますね」    夜が明けようとしているのに、なおも空に残る月。  光に溶けかけながらも、淡く、その名残をとどめている月。  気を抜けばすぐに消えてしまいそうで、それでもなお、そこに在ることを止めようとはしない月。  彼女はその月を見上げていた。  青年を重ねるように、どこか遠い何処かを映す瞳で。 「……有明の月」    青年は小さく、言葉の輪郭をなぞった。  その響きは、夜と朝の狭間にたゆたう光のようで、どこか切なく、それでいて温かかった。  静寂のなかにあるささやかな名。だが、それは確かに何かを照らしている。   「月にも――その姿ごとに名があるのか」  月というものは、ただ一つだ。にもかかわらず、人はその姿に応じて名を変えるのか。   「ええ」  皇女は頷いた。その瞳は優しく、どこか悲しげに揺れた。 「月は夜ごとに姿を変えます。そのたびに、人は名前を与えました。そしてそのすべてに、意味があります。あるいは、祈りと言ってもいいかもしれません」    それは『月』に名を与えているのではなく、その『姿』や『在り方』に、人間自身が意味を見出しているからなのだろうか。  青年はふと目を伏せ、自分の手をかすかに握りしめた。その指先はひどく冷たく、自分のものでないように頼りなく感じられた。彼の中で、なにか静かな波紋が広がっていた。  青年は、再び空を見上げた。  その光の奥に、何かを探すように。あるいは、何かを問うように。   ――名とは、与えられるものなのか。それとも、呼ばれることで生まれるものなのか。  名のない彼にとって、月に与えられたそれらの名は、ただの音ではなかった。それは、存在を肯うための手がかり。記憶の形をなぞるための、静かな灯のようにも思えた。 ――夜が明ける。  東の空に微かな朱が差しはじめ、夜が終わりゆく気配が濃くなってゆく。  再び風が動きだし、世界に音を連れてくる。  遠くの鐘の響き。鳥のさえずり。人の目覚める声──。  それでも、月はまだそこにあった。  淡く、白く。  ひそやかに、確かに、空に在った。  青年はそっと目を細めた。  ◇  世界が音を取り戻し始めた頃、私はそっと言葉を継いだ。  それは、夜が終わる前にどうしても伝えたかった想いだった。  まだ、あの月が空に残っているうちに。 「……あなたは、ご自分に名がないと仰いましたね」  彼はすぐには返事をしなかった。  ただ、空を見たまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。  長い沈黙が落ちる。その時間が、なぜか痛かった。 「……名は、必要のないものだ」  低く、けれど確かに感情を帯びた声だった。  その言葉に、私は思わず胸を押さえたくなった。  彼がどれほどの孤独の中に生きてきたのか、ほんの少しだけ見えた気がした。  言いかけて、私は一度、言葉を呑み込んだ。  けれど、夜が終わってしまう前に、どうしても口に出さずにはいられなかった。  彼が名を拒む本当の理由を、私は知らない。  それでも、その言葉が心に残した冷たさだけは、確かに感じていた。  名前などいらないと、そう言いきれる彼が、羨ましいと思った。  でも同時に、少しだけ、哀しかった。  呼ぶという行為は、ただ音を発するだけではない。  そこには願いがある。認めたいという想いがある。 「……あなたがそれを望まなくても。私は、呼びたいと思ってしまったのです。  呼ぶことで、あなたがここに居ると、信じられる気がするから」  その言葉は、言うつもりではなかった。  けれど、口をついて出た。  まるで、心の奥からこぼれてしまったかのように。    彼がこちらを見た。  静かな目だった。けれど、その奥で、確かに何かが揺れていた。  私は続ける。声が、わずかに震えた。 「名を呼ぶという行為は……その人の在り方を、心から望むということではありませんか」  彼の銀の髪が揺れ、月明かりがその輪郭を淡く照らす。   「……あなたは、ここに居ていいのだと」   「誰かに、望まれてもいいのだと」   「私は、そう……願いたいのです」    言い終えて、私は目を伏せた。  それが、どれほど身勝手な願いであるか分かっていた。  けれどそれでも、どうしても、このまま終わらせたくなかった。  夜の終わり。  有明の月が、空に淡く残っている。  そしてその光の中、彼はまだ、返事をしていなかった。  けれど、私は気づいていた。  彼の眼差しが、わずかに揺れていたことに。  冷たかったその指が、ほんのすこしだけ、自分の胸元の布を握りしめたことに。  名もなく、ただそこに在った人が。  呼ばれることを、ほんの少しだけ、受け入れようとしていたことに。