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烏有辿行 宮階

第十三話 呼ばれることで生まれるもの

 庭の広縁に腰をおろす男の視線の先には、冷たいほどに冴え冴えと澄んだ星空があった。  幾千万もの星が、夜の天蓋を煌々と飾りつけている。  彼の艶やかな黒髪が、微かな風に揺らぐ。傍には淡い灯火を宿した燭台が一つ置かれ、かすかな橙色がその横顔を幽かに照らしている。  ふと、背後の簾がさらりと揺れ、寝殿の廊下に、静かな足音が響いた。気配に気づいていた男は、振り返らないまま皮肉っぽく唇をゆがめた。   「夜は静かに寝ていろと言ったはずだが?」 「あなたこそなぜ眠らない。夜中に星を見つめて何を考えている?」    男はくつくつと笑い、背後の青年にようやく視線を向けた。  彼は物憂げな表情で男を見下ろしながら、ひと言つぶやいた。   「あなたは夜空を眺める時、夜空の先を――どこか遠くを見ているようだ」    男は鼻で笑う。 「随分と詩人めいたことを言うようになったじゃないか」 「茶化すな」  青年は冷めた口調で返すと、男のすぐ隣に無遠慮に腰を下ろした。男はわずかに眉根を寄せて不快げな顔をしたが、青年が同じように夜空を見上げ始めるのを見て、やがて諦めたように口をつぐむ。    二人の間に束の間の沈黙が流れ、風が庭の草木を静かに揺らす。青年はふと顔を上げ、小さく指差した。   「なあ、あそこに瞬いている星は何という?」    青年の透き通った白緑の瞳が、ひときわ明るく輝く星を捉えていた。  男はわずかに首をかしげ、ゆっくりと青年の指した方角を眺めやる。   「……星の名などに興味を持つとはめずらしい。だが、私は詳しくないのでね。今度皇女にでも聞くといい」  男が皮肉っぽく言うと、青年は目を伏せて呟く。 「――人が物に名前を与えるのは、人が何かを心に留めたいからなのだろうか?」 「さあな」  彼は視線を逸らし、無関心を装いながら言った。 「名を呼ぶことで、人はものごとを覚え、時にはそれを愛し、繋がりを持つ。名前とは、その存在がこの世に確かにあったという証なのだ――と皇女が言っていた」    青年はずっと名を拒んできた。名を持てば、自分が道具ではなくなり、自分に課せられた使命を見失う気がしたからだ。  男は懐から短冊状に巻かれた薄い羊皮紙を取り出した。青年が訝しげな目でそれを見つめていると、男はそれを指先で弄びながら続けた。 「名が欲しいんだろう。ならば与えてやろうじゃないか。最近は多少、愛着が湧いてきたことだしな」 「……あなたが愛着などと言うとは驚きだ」  青年が呆れ半分、皮肉半分で返すが、男は無視して続ける。   「冬を越えても常緑を保つ木がある。その名を『柊』という。厳しい寒さにも耐え、凍える暗闇の中でも青々と葉を茂らせる。その生命力と孤独な美しさは、なんともお前らしいと思ってね」   「……柊、か」  青年は小さく呟き、その響きを何度か口の中で転がしてみた。   「……庭に、一本だけあるだろう」 「誰も気づかないような場所に生えていて、冬の間も、ずっと……」    青年は僅かに眉をひそめ、ちらりと横目で男の表情をうかがった。 「なんだ、感傷か」 「まさか。ただ、ふとね」  男は息を吐く。 「あなたがつけたにしては、悪くない名だな」 「まったく、もう少し素直に喜べばいいものを」 「喜ぶほどのことじゃない。……感謝もしていない」  嘲るような響きを含んだその言葉に、男は肩をすくめた。   「本当に可愛げがないな。お前は私に敵意でも持っているつもりか?」 「そういうわけじゃない」    言葉とは裏腹に、青年の態度はどこかぎこちない。わずかに視線をそらし、唇を噛む。その仕草を見逃さなかった男は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。   「はは、つまりこういうことだろう? 私のことは好きではないが、かといって嫌いとも言い切れない。いや、むしろ認めたくないが、それなりに気にしている――違うか?」 「うるさい」 「図星か?」 「黙れ」    青年はむっとして腕を組んだ。その動作は、まるで子供が拗ねたようにも見える。けれど、男はそんな態度を楽しむかのように、どこか余裕を崩さない。むしろ、面白がっているようにさえ見えた。   「ま、光栄に思うがいいさ。白雪の下で冬を越え、春を待つ名だ。お前も少しは成長して、まともな人格になることを期待しているよ」    男が皮肉げに笑って言い放つと、青年──柊は黙ったまま星空に視線を戻した。  その瞳には、戸惑いの奥に、かすかな安堵が滲んでいた。