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烏有辿行 宮階

第十五話 その名を語る資格なし

 朝の霞がゆるりと晴れ、白宸殿の庭に柔らかな陽が差し込み始めていた。夜の冷気をわずかに残した空気が、朝露とともに静かに漂う。しかし、内裏の一角に満ちる空気は決して穏やかではなかった。 「上位階層から客人だと?  そんな馬鹿なことがあるか」  広々とした回廊の奥では、白宸殿へと向かう黒髪の男が苛立ちを滲ませた声音で吐き捨てる。後ろを歩く青年――柊は表情を変えず男に告げる。 「では、皇女が前に出るのは危険ではないのか?」 「……黄晶宮の使節を名乗る以上、無碍にはできん」  男の苦々しげな声が落ちる。  朝の光が廊下の端を照らしているというのに、そこに立つ男たちの顔には、晴れやかな色はない。  二人は、他の延臣とは距離を置き、広間の隅に立つ。背後には外へと通じる渡殿が伸び、几帳越しに冷えた冷気が忍び込んでいた。  幾つかの燈台にはまだ消し残された油の匂いが漂い、夜の名残が、かすかに空気に滲んでいる。  やがて、遠くで静かに響く衣擦れの音。  柊は静かに息を吐き、広間中央の御簾へと視線を向けた。女官たちの動きが止まり、几帳の向こうの気配が引き締まる。  高殿の奥にはこの国の皇女が座している。  彼女は唐衣の襲を纏い、しなやかにたおやかに、しかし確かなる威厳をもって静かに座していた。  南庭には、黄晶宮よりの使節らが膝を折っている。  まばゆい絹衣には、金糸で龍が刺繍されていた。髪には細工の施された玉飾りを揺らし、肌には異国の香が漂う。  一面に敷かれた白砂が陽を受け、使節たちの影を淡く映していた。  皇女の側には角の生えた長身の侍女長が控えていた。その眼差しは静かな湖面のようで、感情を過度に表へ出すことはない。  御簾の向こう、薄絹越しに感じる視線は、冬の月のように冴えていた。  言葉もなく、ただそこに在るだけで、空気がひどく冷える。  皇女のまなざしは慎重だった。  その鋭さは、周囲をも萎縮させるほどで。 「……まるで別人のようだな」    柊はぽつりと呟いた。声は低く、どこか驚きを滲ませている。  男は肩をすくめ、わざとらしく息を吐いた。 「もしあの方を、ただのか弱い姫君だと思っているのなら――その認識は早々に改めることだな」 「怖いぞ、あれは」  淡々と言い放つその声音には、わずかに含みがあった。    やがて、御簾の奥から皇女が澄んだ声で告げる。 「かの黄晶宮が、ついに門戸を開かれたと……まこと、悦ばしきことにございます」  皇女は微笑みながらも、言葉の端に僅かな棘を忍ばせた。 「我らがこの地を訪れたのは、長き時を超え、新たな縁を結ぶため」  使節の声音は柔らかく、深い響きを持っていた。 「皇女殿下、白晶宮の地は実に雅やかなる国。幾度も貴国より使者が参られたと聞いておりますが……ようやくこの時が訪れたこと、我らとて感慨深いもの」 「ようやく、とは……」  皇女は静かに扇を開いた。 「これまで幾度、我が白晶宮が黄晶宮の門を叩こうとしたか……それは、そなたたちが最もよく知るところでありましょう?」  使節は目を伏せ、儚げな笑みを浮かべる。 「恥ずべきことに、我が国は長く世界と隔絶しておりました。されど、時は巡り、新たな潮流の中で……」 「……新たな潮流?」  皇女の声がわずかに低くなる。 「されど、黄晶宮は変化を許さぬ国――なればこそ、何千年もの間、門を閉ざしてきたのでしょう?」  使節は微笑む。 「貴殿の仰る通り。我らは伝統を重んじ、変わることなき理を持っておりました。しかし、ついにその時が……」   「ならば」  皇女はふと、優雅に扇を閉じた。  その動作には、ほんのわずかに舞台に上がる役者のような気配があった。  先ほどまでの柔和な表情は影もなく、その声音は玉座に君臨する女皇のごとく、荘厳に響き渡る。   「そなたに問う。黄晶宮に伝わる、“龍香の儀”について聞かせよ」    広間の空気が張り詰めた。侍女は目を伏せ、黒髪の男だけが、わずかに唇の端を吊り上げた。  使節は一瞬、言葉に詰まった。  だが、すぐに柔らかな笑みを浮かべる。 「それは、もちろん……」 「|も《・》|ち《・》|ろ《・》|ん《・》?」  皇女は静かに問い返す。その声は柔らかかったが、目の奥には冷たい光があった。   「そなたは、これほどに雄弁に語る。ならば、龍香の儀がいかなるものか、詳しく述べてみよ」 「……それは、黄晶様ご生誕の折に行われる神聖なる儀式……」 「そうであろうな。しかし、詳しく、だ」  皇女の視線が、使節の目を捉える。  使節は静かに息を吐いた。 「龍香の儀にて焚かれる香の名を申してみよ」    沈黙。  使節の表情が曇る。 「それは……」 「言えぬのか?」  皇女の声はなおも穏やかだった。しかし、その静けさこそが、まるで刀の刃のように鋭い。 「……殿下、それは……」 「おかしいな」  皇女はゆるりと首を傾げた。 「そなたほどの使節が、それを知らぬはずがあるまい?」  再び、沈黙。  外では風が吹き、庭の枝を揺らした。  その音だけが、張り詰めた空気の中に響いた。   「まことに奇妙なこと」  皇女はゆっくりと立ち上がる。 「そなたたちは、確かに黄晶宮の者のように振る舞っておる。衣も、言葉も、作法も……見事なまでに」  使節は何も言わない。ただ、視線を逸らすことなく、御簾の先を見つめていた。 「だが」  皇女の声が、鋭くなる。 「龍香の儀は――|存《・》|在《・》|せ《・》|ぬ《・》」  使節の目がわずかに揺れた。 「それは今、私が作った架空の儀式。黄晶宮において、そのようなものは、元より無い」 ――その瞬間、広間の空気が変わった。  使節の背後に控えていた者たちが、一瞬だけ互いを見やる。その仕草が、何よりも雄弁に真実を語っていた。 「そなたたちは、一体何者だ?」  皇女の言葉が響いた後、使節――偽りの使節の長は、一瞬の沈黙を挟んで、ゆっくりと微笑んだ。   「まことに見事な御慧眼、感服いたしました」    その声音は、すでに黄晶宮の者を装った柔和なものではなかった。  まるで面の裏から本当の顔が覗いたかのような、軽薄でありながら、冷たく鋭い響きがそこにあった。  皇女は微動だにせず、扇を閉じたままじっと彼を見つめている。 「ならば、もはや装うつもりもあるまい」  使節は、ゆるりと腕を広げた。     「――私は、黄晶宮の者ではございません」      廷臣たちが一斉にざわめく。   「では、そなたは何者だ……?」  誰かが息を呑む音が聞こえた。  使節は、まるでそれを楽しむかのようにゆっくりと視線を巡らせ、そして、静かに口を開いた。     「下界から参りました、|短《・》|命《・》|種《・》でございます」      広間の空気が凍りついた。  まるで禁忌の名を口にしたかのように、誰もが動きを止める。   ――“短命種”。  それは、この国の在り様を揺るがす言葉だった。