「――短命種、だと……? ふざけるな!」 静寂を突き破るかの如く、大柄な男が声を荒げ、使節の前に出る。 それは、白晶宮にとって最もありえない名だった。空高く浮遊する天上界と地上には、鳥さえも越えられぬ標高と天帝直属の術師たちによる強固な壁がある。下界へ降りることはできるが、天上界へ登ることはできない。 短命種がこの地に来ることは――絶対にないはずだった。 「何者であろうとも、我が国の仇敵には違いない! 皇女殿、この者を処断する許可をいただきたい!」 広間に響く怒声に、空気が張り詰める。 大柄な男――左大将は、一歩前に踏み出し、敵意を隠そうともせず使節を睨みつけていた。 周囲の者たちは息を呑み、次の言葉を待つように固まっている。 だが、皇女は扇を軽く掲げ、口元を隠したまま、冷え冷えとした双眸で二人を見据える。 そのまなざしには、怒りも狼狽もない。ただ静かに、すべてを見通しているかのような冷徹さがあった。 ――ただ、ほんの少し、彼女の手が震えていた。 その静寂を、ひとりの男が何の気負いもなく踏み破る。 「相変わらず血の気が多いことだな、左大将殿」 場の緊張をよそに、黒髪の男は気怠げな足取りで進み出ると、自然な仕草で左大将と使節の間に割って入った。 左大将の目が鋭く細められる。抑え込んだ怒りが、その表情の端々に滲んでいた。 「邪魔をするな、神祇伯!」 左大将の手が、静かに太刀の柄へとかかった。 次の瞬間、空気が張り詰めた。 鋼が鞘を離れる微かな音が、まるで風を裂くように響く。 ――それは鈍い音ではない。 どこまでも澄み切り、どこまでも研ぎ澄まされた、刃の音だった。 男は、わずかに目を細め、手にした扇を軽く揺らした。淡々とした口調の奥に、どこか怒気を滲ませる。 「やめておけ。お前は戦えんよ」 その言葉に、左大将の眉間に深い皺が刻まれる。 「貴様……何が言いたい」 わずかに足を踏み出そうとした左大将を、静かな声が制した。 「さがれ」 皇女のひと言は広間の空気を瞬時に支配する。誰も、それ以上言葉を継がなかった。 「実践刀の許可をした覚えはないが」 「――は、しかしながら……」 皇女は左大将を黙殺し、使節へと視線を向ける。 その目には、未だ感情の色はない。 「……拘束する。もはや、礼も不要だ」 誰も口を開かなかった。 使節は両膝をつき、深く顔を伏せていた。 広間に静寂が満ちる。誰もが成り行きを見守る中、使節の長がぽつりと呟いた。 低く、どこか満足げな声音だった。 「――ああ、見つけた」 次の瞬間――異変が起こった。 使節の背後に控えていた者たちが、一斉にその姿を変える。黒い影がゆらめき、布がはためくような音が広間に響いた。瞬く間に、人の形は崩れ去り、無数の黒い羽が舞い上がる。 ――鴉だ。 漆黒の群れが羽ばたき、空へと飛び立とうとする。 「逃すか!」 衛士のひとりが咄嗟に弓を引いた。狙いを定め、一羽の鴉を射抜かんと矢を放つ。 「やめろ!」 男の声が、鋭く広間に響いた。 先ほどまでの気怠げな態度は消え失せていた。彼は珍しく声を荒げ、制止のために一歩踏み出していた。 だが、止めるには遅すぎた。 放たれた矢は空を裂き、狙われた一羽の鴉を正確に貫く。短い悲鳴のような鳴き声が響き、鴉は力なく落ちていった。 男は、落ちていく鴉を見つめ、かすかに唇を引き結ぶ。 ――地に堕ちたものは鴉ではなかった。 地面に転がったのは、人の死体だった。 今まさに息絶えたばかりの少年の亡骸。髪は乱れ、衣は血に濡れ、目を見開いたまま動かない。 「……っ、あ……」 次の瞬間、胃の奥がねじれるような、異様な痛みが、衛士を襲った。 理解するよりも早く、膝が折れる。力が抜けた指先から弓が滑り落ち、白砂の上に転がった。視界がぐらりと歪む。喉の奥が熱く、何かがせり上がってくる感覚に耐えきれず、衛士は口を開いた。 どろり、と赤黒い液体が溢れる。 ――傷を負わされた覚えはない。 それなのに、息をするたびに、胸の奥からじわりと血が逆流してくる。指の間から、ぽたぽたと赤が零れ落ちる。 内側から、骨が、臓が、崩れるのではなく歪む。 その死はまるで、「罰」のようだった。 宮女たちの悲鳴が邸内に響く。 衛士が事切れ、混乱する広間のなかで、男は一歩、広間に足を踏み出す。 「――|ど《・》|こ《・》|で《・》|知《・》|っ《・》|た《・》?」 その声には、抑えきれぬ怒りとも、深い恐れともつかぬ何かが滲んでいた。 使節は沈黙したまま嗤った。