空には、もはや一羽の鴉の影もなかった。 柊は肩で浅く息をつき、静かにその場に立ち尽くしていた。 白銀の髪は飛び散った血を含んでいる。 それでも彼は、倒れることなく、ただ―― 己の手を、確かめるように見つめていた。 自らの存在が、まだこの世界にあるのかを、問いかけるかのように。 ◇ 「――神祇伯。説明を求めます」 皇女の声には、わずかな揺らぎもなかった。 それは命令ではない。審問だった。逃れ得ぬ問い。 あるいは、それを口にした彼女自身が、答えをもっとも恐れていたのかもしれない。 しばしの沈黙ののち、男は唇の端だけで微笑んだ。 「……この状況が、すべてですよ」 芝居がかった声音。だがその軽やかさは、空虚であり、感情を誤魔化すための皮膜のようだった。 男は、横たわる衛士の傍らに静かに膝をついた。 わずかに開かれた瞳には、まだ何かを見ようとしているようにも見えた。 「我々、長命の民は……他者を殺すことを許されていません」 静かに、男は言った。 「たとえ一度でも、その掟を破れば――その瞬間、その命は断たれる」 男はそっと手を伸ばし、指先で瞼を撫でるように閉じる。 ……あの衛士は、たしかに“鴉”に向けて矢を放ったはずだった。 その直後、突然倒れた――まるで、内側から焼けたように見えた。 「それが、“国罪”です」 男は静かに身を起こし、皇女の方へと向き直った。 「なぜ、我々は争わず、死も知らずにここまで続いてこれたのか。 殿下……あなたは考えたことがありますか?」 男の声には、奇妙な静けさがあった。 皇女には、それが諦念にも、誰にも届かぬ告白のようにも聞こえた。 「忘れるからです。少しずつ。少しずつ、確実に。歪んでいく」 皇女の瞳が揺れた。恐れが、その奥で波打つ。 言葉はなくとも、彼女はわかっていた―― 誤った正史を書き続ける史官たち。真実を知らぬまま礼を継ぐ学者たち、手習を受けた覚えのないものの習得、穏やかに続く日常に明らかな違和は存在した。 歪みがありながらも、平穏な日常に甘んじていた。 「記憶とは祝福ではない。それは魂の底に沈殿し、いずれ毒となり、己を蝕む」 「……忘れることを許されぬ者は、やがて己の重みに耐えきれず、理のかたちを外れる。そして、異なる存在へと変わり果てていく」 「天帝は、それを“天罪”と呼びました」 空が、低く鳴る。誰かが息を飲む気配すらなかった。 「この二つの罪は、誰が齎したのかすら定かではない。けれどそれは、長命種の魂の奥深くに刻まれた、抗いがたい機構――もはや、理そのものだ」 「――私はかつて、天帝に仕えていた。記憶を司る|白《・》|鞘《・》の一族の一人です」 男の瞳は、遠くを映すようにぼんやりと揺れていた。 皇女の目には、男の瞳が遠い過去の風景を映しているかのように見えた。 「白鞘家は、天帝に命じられれば記憶を消去し、改竄する術を担う者。 今も私の一族の者が、ときおり記憶を操作しています」 「……ただ、白鞘の一族には――私には、この術が効かない」 皇女は息を呑む。 どれほどの時を、彼は黙してきたのか。 見限ることも、憐れむこともせずに、ただ傍観し続けてきたのだろうか。 「……誰か一人でも、理の外に連れ出せたら、救いになると思っていた時期もありました。愚かでしたが」 男は目を伏せ、わずかに肩を落とした。 吐息は静かだが、長かった――まるで胸の奥に溜まっていた何かを、そっと手放すように。 「この制約はすべて、下界に住む短命種には科されていない」 その一言に、皇女の背がわずかに震えた。けれど彼女は、うつむかない。 瞳を逸らさずに、男の言葉を受け止めていた。 「だから、長命種は天に、この地に国を築いた。罪なき短命種のそばにいることを恐れたからです。 ――彼らから逃れるように。神という名を被り、触れられぬ存在となることでしか、長命種はその生を守る術がなかった」 「そして、あの青年――柊は、長命種でも短命種でもない」 空が凪いだ。 重く濁った雲の裂け目に、静かに鴉の群れが現れていた。