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烏有辿行 宮階

第二十話 我が名のもとに

 分厚い板戸と蔀戸がすべて閉じられた室内には、陽の光さえ届かず、冷えた空気と静謐だけが息をしていた。 「そんな、ありえない」  言葉は弱々しく、震えていた。  いまこの瞬間、見て見ぬふりをしてきた現実が、最も残酷な輪郭をもって立ち現れた。  外では、なお無数の鴉が黒い渦を描いて旋回し続けている。  近衛たちは抵抗すらできず、雨に打たれて沈黙し、ただひとり――柊だけが、その中心に立ち、影の群れと向き合っていた。  侍女たちは市井の民を連れ、濡れながらも懸命に宮中へと導いてゆく。  誰もが命を繋ごうとするなかで、ただ一人、命を懸けて踏みとどまる者がいた。    皇女は唇を噛む。  穏やかな日常にひそんでいた虚無は、ついにその正体を剥き出しにし、情けも容赦もなく、皇女の前に立ちはだかっていた。  混乱しながらも、つぎはぎだらけの記憶を辿り、皇女は逡巡する。踏み出した一歩は躊躇い、迷い、震えていた。  凄惨なまでに血で染まった惨劇の跡地から引き離され、その男は皇女の前に静かに差し出された。男は何も語らず、すこしばかりうなだれたままじっと佇んでいた。  数千年という気が遠くなるような歳月、たった一人で途方もない重責を背負い続けてきた男の姿は、痛々しいほど弱々しく思える。  すべてを諦念と償いに捧げようとするような、そんな姿だった。  息苦しい沈黙が二人の間に横たわり、静かな時間だけが流れた。  外の風の気配さえ届かぬこの領域には、ただ灯籠の灯だけが淡く脈を打ち、壁に柔らかな影を揺らしていた。  衣擦れの音が、ふたりの間を満たす唯一の響きだった。  やがて、皇女はその重々しい空気を押し破るように、覚悟を込めて口を開いた。   「――国罪に抗える唯一の存在が、あの者だというのですか?」    問いかけは震え、掠れかけていたが、確かに響いた。      男は皇女の言葉にゆっくりと顔を上げ、静かに頷いた。  天罪や国罪という理不尽な力に抗うため、男が生み出した最後の、そして唯一の希望であった。  柊自身は、とうに自らの使命を理解していたのだろう。     「だが、あれは――一騎当千の戦士などではない」    彼の胸の内に疼く痛みを、皇女は感じ取っていた。  ――自分が、彼に何を背負わせてしまったのか。  それを理解しているのは、何より彼自身なのだと、皇女は知っていた。   「ただ長命種の罪を持たないというだけの。――そして……」  男の唇がわずかに動いたが、音にはならなかった。     「失礼いたします、殿下――神祇伯殿」  静謐に満ちた場に、ふいに冷ややかな声が響いた。  ゆるりと几帳を分け、大蔵卿が一歩進み出る。流麗にして隙のない所作で、深々と頭を垂れた。 「あの者を引き渡すべきかと存じます」  言葉が、静かな波紋を広げていく。皇女の眉がわずかにひそめられたが、その表情は崩れぬまま言葉を返した。 「理由は?」 「例の使節――いや、短命種どもが告げました。あの男の存在は災いであると。このまま記録に存在せぬ者をこの国に留めては、いずれ国家の理と秩序を損なうでしょう。ましてや、我が国に仇なす意図がないなどと、誰が保証できましょうか」  その声音は静かだったが、ひとつひとつの音に刃の鋭さが宿っていた。    「―――貴様!!」  神祇伯の声に怒りが滲んだ。  音を踏み鳴らすように歩み寄り、大蔵卿の目前でその衣の胸元を荒々しく掴む。 「奴らと――通じていたな!!」  咆哮に近い声が、室内を震わせた。  だが、大蔵卿は動じない。  掴まれたまま、肩を揺らすでもなく、ただ涼しげに微笑んでいた。 「交渉とはそういうものだ。相手が敵であれ味方であれ、国家の益となる話ならば聞く。それこそが外交という術であろう」   「戯言を……!」  神祇伯は唇を深く噛みしめた。   「――神祇伯、控えなさい」  静かに、しかし揺るぎなく皇女は言い放つ。  神祇伯は渋面を作りながらも深く一礼し、几帳の向こうへ下がった。  大蔵卿は短く息を吐くと、静かに言葉を継いだ。 「殿下。あなたがどれほどあの青年を信じていようと、民にとって彼は理解不能な存在——災厄に他なりません」  皇女の指先がぴくりと震え、小さく息を呑む。 「……“民”とは、誰を指しているのですか」 「この国に生きる、すべての者です」 「その“すべて”を守るために、たった一人を犠牲にしろと?」  静かに問い返しながら、皇女は扇を強く握りしめる。  その細い手に浮かぶ白い筋が、感情の揺らぎを雄弁に語っていた。 「その通りです。それが国家というものです」  大蔵卿の声音は変わらない。理だけを貫く、容赦のない響きだった。 「国の形が壊れれば秩序は崩れ、民は混乱し、やがて国家そのものが瓦解する。これは情では救えぬ、理の問題でしょう」  皇女の唇がわずかに震える。 「しかし……彼を失えば、この国は、もう……持ちません。長命種は、自らを守れない」 「ならば、それ以外の方法で守ればよい」  淡々としたそのひと言に、空気がきしむ。  大蔵卿の瞳が、まっすぐに皇女を射抜いていた。 「まさか……あなた、まさか――」  扇を握る手に、さらに力がこもる。  その白く染まった指先に、皇女の胸中が滲んでいた。 「国罪は、行使すれば命を失う。ですが、それでも確実に敵を討てる力だと証明された。ならば、あとはこの国に生きる全ての者に命じるだけです――|殺《・》|せ《・》、と」  その言葉に、皇女の瞳が微かに揺れた。 「……何を、言っているの?」  震えるような声で、皇女は言葉をつなぐ。 「すべての民が、争いを禁じられ、殺生を知らず平穏を享受してきました。しかし今や、戦わねば滅びる局面。ならば、この国に住まうすべての民に、国罪を犯させるのです。その代償に“死”が訪れようとも――国家が生き残るためには、必要な犠牲でしょう」 「……それが、あなたの正義だと?」  皇女の声に怒気が滲む。だがそれ以上に、深い絶望がその響きを染めていた。 「国が……民の命を消費するというの? 人を道具のように使い捨てる国家に、一体何の意味があるのです!」 「それが、国家という装置ですな。民が国を作るのではない。形ある国があってこそ民は守られる。その形が崩れれば、誰も生き延びることはできない」  皇女はまっすぐに大蔵卿を見据えた。  彼の目は冷淡で、そこには恐れも躊躇いもなかった。 「ならば、人が人である意味などどこにあるの?」 「ありません、殿下。最初からです。『国家』という機構にとって、人は部品に過ぎない。いかに部品が壊れようとも、その機構を動かすことができるなら――私は迷わずそれを選びます」  大蔵卿の言葉は、氷のように冷え切っていた。 「……私は、人を殺す国など国と認めません」  皇女の言葉は、まさに刃だった。だが大蔵卿はその刃を恐れるでもなく、ただ小さく首を傾げた。 「その綺麗事が、どれほど多くの命を奪うことになるか、想像なさったことは?」 「あるわ。だからこそ私は、捨てるのではなく、共に背負うことを選ぶのです」  大蔵卿は静かに瞼を閉じた。そしてゆっくりと息を吐く。 「ならば殿下、あなたが選ばれたのは王ではなく、人としての生き方だということですね」 「ええ。その通りです。私は民を守りたい。国という形ではなく、生きているたった一人の命を。その重さを、私は決して忘れない」  その瞬間、外から低い轟きが響き渡った。まだ、戦いは終わっていない。柊が今も、その身を削って戦っているのだ。 ――それでも、皇女は分かっていた。この男もまた、彼なりのやり方で国を守ろうとしているのだということを。  だから、皇女は静かに告げた。 「あなたの理が、この国を支えてきたことは疑いません。ですがこれからのこの国は、誰を生かすかということを大切にし、その形を決めていくでしょう」  大蔵卿はゆっくりと立ち上がった。  歩き出しながら手にした扇を広げると、その骨の一片が淡く冷たく輝く。 「では――私の理が誤っていたか否かは、後の世が決めることでしょう」  背を向け、そのまま去り際に小さく呟く。 「私は間者を招き入れた。その咎が、この国の平穏を乱し、あなたに刃を向ける結果を生んだのなら――その責は、私が負うべきもの」  言葉が、静かに空気に溶けてゆく。 「全てが終わったら――あの男に私の首を刎ねさせなさい」  重い扉が音を立てて閉じられた。  残されたのは、言葉の消えた静寂のみだった。