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烏有辿行 宮階

第二十一話 決断

「……もう、構いませんよ」  皇女が振り返るより早く、部屋の奥から一人の男が歩み出た。  濃紺の袍をゆるくまとい、手には閉じた扇。黒髪の下の目元には、いつものような余裕がある――けれど、その瞳は冴えていた。  神祇伯だった。 「途中で、割り込んでくるかと思いました」  皇女はくすり、と笑う。しかし、その瞳は哀しみの色を宿していた。 「随分と長く、黙っていたものだと自分でも思いますよ。けれど、あの場は――言葉を挟むには、やや硬すぎた」    皇女はゆるく目を伏せ、問う。 「……どう思ったの?」   「彼は正しい。彼の理も、また」    男は静かに近づき、卓の端に腰を下ろした。  扇を膝に置き、柔らかく手を重ねる。  皇女はゆっくりと目を伏せたのち、再び顔を上げた。 「神祇伯」  その声は震えていなかった。 「民を下界へ逃します」    もはや、戻る道はなかった。  ならば、進むしかない。  どんな結末が待っていようとも。 「――民を救うために、国を手放すおつもりですか」  男の声は静かで、響きには嘲笑でも怒気でもなく、ただ乾いた知性の冷たさがあった。 「それでも、民が生き延びるなら――下界へ降りたあの女性のように」  男はほんのわずかに目を見開くが、すぐに目を伏せた。 「……やはり、物語などではなかったのね」    男の声が低くなる。 「……ですが、殿下。あれは特殊なのです。民のすべてが耐えられるはずもない。まして、あの鴉どもが静観してくれると、誰が保証できましょうか」  男は続ける。 「そして、下界では、白鞘の記憶消去も届かなくなるでしょう」 「それは国民全員が、いずれ記憶の毒に犯され、理を逸脱した化け物に成り果てるということですよ」  沈黙が、再び二人の間に降りた。  だが、次の言葉は、あまりにさりげなく放たれた。 「――もっとも。まったく手がないわけではありません」  その一言に、皇女のまなざしが僅かに動いた。  しかし男は、それに気づいていながら何も説明しようとはしなかった。ただ、わずかに首を傾けて、上を見る。  天井は高く、かすかに白檀の香が染みていた。 「可能ではあります。ただし、代償が……いささか、重い」  彼は視線を戻すと、ほんの一瞬だけ――まるで心からのもののような、静かな声音で続けた。 「ですから、殿下。あらためてお訊きします。民の“生”が、国の“死”をもってして守るに値するものだと、そうお考えですか?」  その言葉には、いつものような飄々とした皮肉はなかった。  この男は選ばせているのだ。  知っていて、なお、言葉にさせることで覚悟を問うている。  皇女は静かに目を上げた。瞳には強い意志が宿り、揺らぐことはない。 「我々が本当に守るべきものが何であるか――その答えは、すでに明白ではありませんか」  自身が座す皇女という地位に、いまさら何の未練があろうか。この身分など、惜しくもない。たとえ国の名が消えようとも、人の命が繋がる限り、歴史は終わらない。  ゆっくりと顔を上げると、皇女の目にはもう迷いはなかった。その瞳はまるで、烈火の中でなお揺らがぬ鋼のように澄み、まっすぐに未来を見据えていた。 「たとえ記憶が消えていたとしても」  言葉は静かだったが、そこに宿る覚悟は誰の耳にも明らかだった。 「私は幾度でも立ち上がり、民を守る。何千度でも、何万度でも」  彼女は知っている。あの鈍い違和感に目を逸らしてきた日々が、どれほどの代償を伴ったかを。だからこそ、もう二度と同じ過ちは繰り返さない。   「私は、人のための道を選びます」  ——私という存在は、決して失われはしない。   「……まったく、あなたというお方は」  男はゆっくりと扇を畳み、その骨の先で床をとん、と軽く叩いた。  その音が、静寂の中に乾いた響きを落とした。  声には笑みが混じっていたが、その笑みが何を意味するものかは定かではなかった。 「答え合わせなど、せずとも済むことでしたよ。ええ、わかっていましたとも。あなたがそう言うであろうことも、その言葉がただの理想で終わらぬことも、とうに」  男はしばし彼女を見つめ、その後、ようやく小さく息を吐いた。 「……やれやれ」    笑みの形は変わらないのに、どこか、その瞳の奥には別の感情がちらついていた。  彼はふっと扇を仰ぎ、視線を遠くに投げた。   「……私としては、もう少しこう……楽に進む道があってもいいと思っていたのですが。あなたはいつだって、重たくて、厄介なほうを選ばれる」    その口調は軽い。しかし、言葉の隙間には、確かな痛みがあった。