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烏有辿行 宮階

第二十二話 烏有に至る

「……ひとつ、愉快な術の話をしましょうか。いや、愉快という言葉は不適切かもしれませんな。人によっては悪夢と呼ぶかもしれない」  雨はもう止んでいた。  鴉たちは嘲笑うかのように虚空を旋回する。互いに交錯するようにして飛び、時折、掠れるような不気味な鳴き声を交わした。灰色の空の中に、彼らの姿だけがくっきりと、墨汁を垂らしたように滲んで見える。  男は扇を閉じたまま、空の向こうを眺めていた。  皇女は彼の傍らに立ち、視線だけを向けていた。言葉はない。彼女は黙って耳を傾けていた。 「時を止める術、というのは、古代より夢想されてきたものです。いえ、正確には止めるというより、外す。世界の大河から、切り離す。流れに乗せず、ただ岸辺に置いておくように」  男の指が空をなぞる。  指先が震えていた。それは、寒さのせいではない。 「この術は、対象の時間を外側から閉ざします。結果、内部では一切の変化が起こらない。細胞の死も、血の流れも、記憶の減衰すらも。すべてが、その瞬間のまま保存される。生きたまま、永久に動かぬ……それが、この領域の本質です」  皇女の瞳が、わずかに揺れた。  男は、穏やかな笑みを浮かべたまま続ける。 「領域の内では、長命の我々は凍結されます。生のまま、時を経ずに」  男の言葉が、胸を貫く。  彼女は、感情を必死に押し殺していた。 「一方で、外から侵入した短命の者たちは……違う」  彼の声が、ほんの少しだけ低くなった。 「奴らは動けます。領域に入ることすらできてしまう。時の影響を受けにくいからこそ、我々とは違う速度で動いてきた。けれど、この領域の外縁――現実の時間へと一歩でも踏み出せば、その瞬間に風化する」 「なぜなら、彼らはその速度を保つ設計ではないからです。時の奔流に晒されれば、即座に崩れる。いわば、この術は――」  彼はふっと息を吐いた。 「……逃れる者だけを焼く、透明な火です」  皇女は、視線を下ろした。  静かな思索がその瞳に宿っている。だが、恐れではなかった。  ただ、重さを測っているのだ。自らの意志が、この術の重みに見合うかを。  男は、彼女の沈黙を遮らなかった。  そして、ゆっくりと問いを差し出すように言った。 「――この術は、民を守るには、あまりに冷たく、非情です」 「それでも、殿下。あなたはこの領域を張ると、お決めになりますか?」  その声音は、いつも通りの飄々としたものだった。  けれど、その中には、何かを押し殺すような痛みが、わずかに滲んでいた。  応えぬまま、間だけが長く伸びる。  庭に咲いた白花が、一輪、風に撓んだ。  その静かな揺れは、決意を前にした者たちの呼吸のようにも思えた。  この時、鴉は誰も襲わなかった。ただ監視するようにこちらを見下ろす。  やがて、皇女はそっと顔を上げた。 「……まるで、時の檻ね」  その言葉に、男は目を細めた。  声は凪いでいた。悲しみも、怒りもなかった。ただ事実を告げるような口調だった。  皇女の息が震えた。だが、声には確かな意志が宿っていた。 「命が繋がるなら、それで十分。いずれ誰かが時を解き、再び目を開けたとき、その魂が誇りを取り戻せるように――私は今、この決断を選びます」  その決断は、強さではなく、痛みに裏打ちされた覚悟だった。  男の胸が軋んだ。  声には出さなかったが、唇が抗いきれずに歪んだ。 「おや、ではその“誰か”とは。まさか、未来の気まぐれな旅人に託すと?」  皇女は頷いた。 「はい。――あるいは、あなたかもしれません」  彼の名を呼ぶ。 「春草」  その響きが、男の中の何かを崩した。  目を伏せ、わずかに息を呑む。その肩先が、ごく小さく落ちた。 「ご冗談を。そんな重たい荷を私に背負わせないでいただきたい」  皇女の唇が、ふっと緩む。微笑ともかすかな吐息の動きともつかぬ気配。  春草は扇を閉じ、音を立てぬよう、そっと前へ。 「殿下、これは私のただの感想でしかありませんが――あなたは、本当に、厄介なお方だ」 「ええ、自覚はあります」  風が吹いた。白絹の衣がふくらみ、波紋のように広がった。 「では、その厄介な女をどうか忘れないで。私が、ここにいたということを」    春草の顔から、笑みがふと消えた。 「忘れろと命じられても、忘れはしませんよ。そんなに出来が良くないものでね、私は」  彼の言葉はさらに深く、柔らかく沈んでゆく。皇女は目を伏せたまま、彼の言葉を聞いていた。       「……ああ、まったく。これだから、あなたには勝てない」  春草の声は風にかき消されて皇女の耳には入らなかった。          春草は一歩、彼女に近づいた。 「……殿下」  春草は呼んだ。呼びながら、扇を畳み、袖に収めた。 「……私は、本来この場にいてはならなかった」 「あなたの意志を尊重すると決めていた。言葉を遮らず、結論に口出しせず……ただ、見届けるはずだった」  春草は手を伸ばしかけ、けれど指先をほんのわずかに止めた。  ――怖かったのだ。  彼女の強さも、決断も。  ……そして、今ここから、いなくなることも。  皇女はその言葉に眉をひそめ、彼を振り返った。その瞳に宿るものは、問いだった。   「何を――」  言い終える前に、春草の手がひらりと舞った。軽やかな手の動き。   「最後に一つだけ、嘘を吐きます」    その瞬間、風が止まり、光が揺らぎ、空気が微かに反転した。  術が展開された。   「……っ」    皇女の視界が滲み、焦点が揺らぐ。  意識が薄れていくことを、はっきりと悟っていた。  だがそれはあまりに早く、あまりに穏やかだった。花が静かに散るように。  春草は、ゆっくりと彼女の身体を抱き留める。    重さなどない。抜け殻のように、眠るように軽かった。   「……申し訳ありません」    春草は呟いた。誰にも聞こえぬほどの、浅い吐息のような声で。   「本当に、申し訳ない」    腕の中で眠る皇女は、まるで呼吸さえ忘れたかのように静かだった。けれどその表情は安らかで、恐れも痛みもなかった。  春草は、しばらく彼女を見つめた。  指先が、髪へ伸びる。そっと触れ、撫でるように払った。    ひどく慎重で――ひどく、優しかった。   「……私はあなたを、時の檻に閉じ込めたくない」  震える声。何度も息を呑みながら、言葉を探していた。 「……あなたの時間は、止めない」  それは祈りのように滲む言葉で、哀切を帯びていた。  春草は、皇女をその腕に抱いたまま歩き出す。  その歩みは、深い後悔と、それ以上の想いに押されていた。   「花は風の中に咲いてこそ、美しいのですから」    皇女の顔を見つめながら、彼はそっと笑った。その笑みには皮肉も冗談もなかった。  手放すことを惜しむような――ほんのわずかな、人としての温もりが、まだそこにあった。