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烏有辿行 宮階

第二十三話 願いだった

 空は鈍色を帯びていた。風はなく、ただ白く霞む気配だけが庭を満たしている。  おそろしいほどの微かだった。目には見えず、皮膚にも触れず、それでも確かに世界の底が静かに傾き始めている。   「まったく、ひどい湿気だ……」    男が言った。声音は変わらない。軽く、どこか皮肉めいている。だがその足元に落ちた影には、ほんの少しだけ揺れがあった。     「……あなたは……ひどい男だな」  柊の声は低く、押し殺されていた。  けれど、その一言に含まれた感情は、怒りとも悲しみともつかない、名のない色をしていた。 「なんとでも言うがいいさ」  男は背を向けたまま、扇子をひと振りする。  その仕草はあくまで優雅で、まるで世辞でも言われたような穏やかさすらあった。   「……皇女を頼むぞ」  その一言で、柊の表情が明らかに変わった。  白銀の睫がわずかに震え、沈黙がその場をひたひたと覆っていく。   「……あなたは、死ぬつもりだろう」  男は答えなかった。  否定もしなかった。  ただ、扇子の骨をゆっくりと閉じていく音だけが、世界から遠ざかるように響いた。   「術式の展開と維持――いかに優れた術士でも、それだけの負荷を自らに背負えば……いずれ、それは国罪になる」  柊は、初めてその声に怒りを滲ませていた。  静かな怒りだった。だが、それは確かに、柊という存在の底に燃えているものだった。   「そんなこと……僕が、あなたにさせると思っているのか」    男は、それでも振り向かなかった。  かわりに、ただひとこと。   「黙って、見てろ」 「――断る」    その言葉に、男は微かに笑った。  自嘲にも似た笑みだった。あるいは、諦めかもしれない。だが、どこかに一抹の愛しさが含まれていた。 「……最後まで、可愛げのない性格だな。まったく」  柊の瞳が細く揺れた。何かを返そうとする。けれど、言葉は形を成さなかった。   「何が――」  男は、かすかに目を細めた。  それはもう、笑みとは呼べないものだった。ただ、静かな到達のように。 「……私がお前を創った理由など、とうにどうでもよくなった」  柊の表情に、戸惑いが浮かぶ。  それは、この青年には珍しい、感情の露わな揺らぎだった。   「名前を持ち、存在を肯った以上――お前には、お前自身の“生”を選ぶ資格がある」  男は、ようやく歩み寄る。  柊の目の前に立ち、けれど触れることはなかった。     「自由に生きろ。それが、お前という存在の証になる」      その声音には、もはや術士としての誇りも、後悔もなかった。  あるのはただ、一人の人間が、もう一人の“人間”に託すための、最後の言葉だった。      柊は、言葉を返さなかった。  返せなかった。  ただ、立ち尽くしたまま、その瞳を、震えるままに男へと向けていた。