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烏有辿行 宮階

第二十五話 僕の名を、呼べ

 空が、ひとつ、ひどく澄んだ音を立てて――沈黙した。  それは、世界がその呼吸をやめたような瞬間だった。  確かに音はあったはずなのに、それは広がることなく、領域の内側に吸い込まれていった。風も、熱も、光さえも、何かの膜の向こうへと押しやられたようだった。  凍結の境界が、足元に迫っている。だが、それは彼に触れなかった。 世界が止まった――それなのに、柊だけが、その外側にいた。    触れたはずの領域が、彼の存在を撥ねるように、薄膜のように流れていった。  柊自身も気づいていた――この術は、彼を“対象”として認識していない。  最初の一歩は、  まるで氷面を確かめるように、  そっと踏み出された。    雪がきしむ。  その感触が足裏を伝い、  彼を現実に引き戻す。  重ねた狩衣の裾が足に絡み、歩みを乱す。  肺が冷気を吸い込み、焼けるように痛む。  それでも進むたび、視界の中に人々が浮かび上がる。    彼らは皆、まるで精巧な人形のようだった。  何も壊れず、何も奪われず、  ただ、完全な静止の中で保存されている。  時間の流れを断たれた世界のなかで、  彼だけが異物だった。  足取りはぎこちなく、布が絡み、膝が上がらない。  雪に足先がつかえ、つまずくたび、肩が揺れる。  それでも進む。  彼の歩みは、凍った湖面に刻まれる細い亀裂のようだった。  その一歩一歩が、時間にさざ波を生む。  彼の存在だけが、この沈黙の領域に音と動きをもたらしていた。  風が頬をかすめる。  その瞬間、柊の歩みはわずかに変わった。  一歩、また一歩。  雪を裂き、足音が響く。  誰も動かず、何も答えず――  だからこそ、その足音は、自分自身の存在を証明するための鼓動となって世界に刻まれた。  冷えた空気が肺を刺し、袖が風を孕んで体をよろけさせる。  けれど、彼の瞳はまっすぐだった。  迷いも、怯えも、振り返る理由も、  もはやどこにもなかった。  風の音に合わせるように、  柊の歩きは速さを増してゆく。    足を突っ張り、転倒を防ぎ、袖を払って体勢を立て直す。  呼吸は浅く、白い吐息が凍てた空に消えていく。    柊は走る。  髪が顔にかかる。視界を遮る。  けれど、彼はそれを払わなかった。  ――どうでもよかった。  どうでもよくなるほど、心のどこかが壊れかけていた。  逃げ遅れた鴉の一羽が、低く、滑空してくる。  柊は、地面に無造作に捨て置かれていた刀を引き抜いた。  刃が、沈黙の世界の中で鈍く反射する。    腕が弧を描き、刃が音もなく閃いた。  黒い影が断たれ、羽が霧のように散る。  止まった世界のなかで、その瞬間だけが鮮やかな現実だった。  布が風を裂き、刃が光を裂き、足音だけが響く。  鴉の叫びが交じる。  それが過去から迫り来る罪の声であろうとも――彼は斬る。    三羽目、四羽目。  音もなく、羽が舞う。  だが彼は止まらない。  罪をなぞるように、未来を裂くように、ただ走る。  そのとき――  ひときわ鋭い鳴き声。  鴉が一羽、目の前を掠める。  頬に熱い感覚。  血が滲んだ。  その瞬間、何かが崩れた。 「……―――ッ!」    声にならない声が漏れる。  顔が歪む。  眉が吊り上がり、目が見開かれ、口元が震える。  怒りか。哀しみか。恐怖か。  ――もうわからなかった。    皮膚が。肉が。骨が。脳が。魂が。  痛い。  それなのに、手は離れない。離せない。  離したら、何かが終わってしまう気がして。  もう二度と戻れなくなるような気がして。  けど、怖い。怖い。怖くてたまらない。  胸が張り裂けそうだった。  心臓が壊れてしまうようだった。  刀の重さが腕に残る。  握力が削がれ、限界が近づいてくるのを肌で感じた。    羽音が迫る。もう、振り返る暇はなかった。  肩を爪がかすめ、裂けた布から血が滲む。  痛みよりも、動きの鈍りが致命的だった。              雪の上を駆け抜ける彼の足が、ふと止まる。  その視線の先――崩れかけた白宸殿の跡、白く凍りついた地面の中に  ひとりの男が倒れていた。  肩で荒く呼吸を繰り返しながら、柊は、雪をかきわけるようにして駆け寄った。  男の身体は、すでに色を失っていた。  まるで世界そのものから忘れられた存在のようだった。  「……っ」  柊はその胸倉を掴んで、乱暴に引き起こす。  男の体は驚くほど軽く、危うく、力の抜けた布のようだった。  「……なんだ。人が気持ちよく……寝ているというのに……」  男はかすかに笑った。  その声は、もうどこにも届かないような、掠れた残響だった。  柊の肩が震える。  口を開こうとして、何も出ない。  言葉が感情に追いつかない。  ようやく絞り出したのは、喉を裂くような――叫びだった。  「ふざけるな……ッ!」  凍える空気が震える。  それは叫びというにはあまりに歪で、  怒鳴るというにはあまりに痛々しい声だった。  「勝手に……全部を置いて……勝手に、終わらせようとして……!」  声が震える。喉が焼ける。  胸の奥が、どうしようもなく張り裂けそうだった。  奥歯を噛んで、こらえる。涙を飲み込む。  けれど、それでも声はにじみ出た。  「お前が……僕を創って……放り出して……なのに今さら……!」  言葉も、感情も、何もかもが、もう整っていなかった。  それでも、柊の声は確かに“人間”のそれだった。  ぐしゃぐしゃで、醜くて、けれど――ひどく、あたたかい。  このまま、壊れてしまいそうだ。  心が。形が。名前が。何もかもが、滲んで、崩れて――  自分が、自分でなくなってしまいそうだ。  男は、薄く目を開いた。  その瞳に映るのは、  自分がかつて“道具”として創ったはずの存在――  しかし今や、自分の想像をはるかに超えて、生きてしまった“誰か”だった。  男は、ゆっくりとまぶたを閉じかけた。  その瞬間。  柊の手が、男の胸に伸びた。  術式の中心部へ――  直接、触れた。  侵入ではない。  奪取でもない。  ――ただ、受け取った。  術式が軋む。  領域がかすかに震え、領域の光がざわめいた。  光の流れが、柊の内部へとなだれ込む。  肉が裂けるような痛み。  骨が悲鳴を上げる。  精神が燃える感覚に侵される。  胃が裏返りそうだ。肺が焼けて、息ができない。  心臓が、自分の意志とは関係なく暴れてる。  手足の感覚なんて、とっくにない。  こんな痛みがあるなんて、知らなかった。  誰かを助けるって、こんなに――  こんなにも、怖くて、辛くて、孤独で……!  目の奥が熱い。声が出ない。喉が焼けて、音にならない。  それでも、彼は手を離さなかった。  歯を食いしばり、目を開いたまま、光を正面から受け止める。  「……僕は、おまえたちの“理”に属していない」  喉を焼く痛みのなか、絞り出す。  「だから……たとえこの術を受け取っても、“国罪”にはならない。けれど……」  彼の声が微かに震える。  その震えは、恐れではない。確信だった。  「……違う形で、きっと、壊れるかもしれない。崩れるかもしれない」  生み出された者でいい。作り物でいい。  それでも、僕はここにいる。      皇女が導き、あなたが託した。    だから――受け取る。  あなたが遺そうとしたものすべて。  その痛みも、罪も、残酷さも、矛盾も。  それでも、あなたが、自分が、確かにこの世界にいたという証を。  術式の中枢が反転する。  主が、書き換えられる。  男の魂を核とした術式は、柊の名を新たな印とし、静かに構造を変えていく。  光の流れが、まるで血潮のように柊の内側へと吸い込まれてゆく。  痛みは極限を超え、やがて感覚をも奪った。  それでも柊は叫ぶ。      「僕の名を、呼べ! 春草!」      領域が、新たな主を得て再構築される。  それは、誰かに命じられたものではない。  ただ、自分自身の存在を、  この世界に刻みつけるためだった。  長い物語の末尾に、  ようやく添えられた――一つの名。  それが、柊だった。