Loading...

烏有辿行 宮階

第二十七話 成れの果て

 地に倒れ伏したまま、男――春草は浅く、途切れ途切れの呼吸を繰り返していた。  胸を灼くような苦痛が、引き潮のように全身に広がってゆく。息を吐くたびに肺が軋み、命が細く擦り減っていくのがわかる。視界はすでに霞みかけていた。  ——だが、春草はまだ生きていた。 「……あの、馬鹿者が……」  掠れた声音で呟く。その一言を吐き出すだけでも喉が張り裂けそうだった。 「自由に生きろと言った矢先に……」  術式を展開し維持するため、全ての力を使い尽くしたはずだった。自らの身は、まもなく烏有へと帰すのみだったのだ。それが定めであると受け入れ、安堵さえ覚えていた。  しかし今、その術式の制御権は、春草の手を離れていた。  ——柊だ。  柊は静かに、すべてを奪い取ってしまったのだ。自らが背負うべき業を、その背に負うことを選び取った。柊が肩代わりしたのだった。  道具としてではなく、人として生きる自由を与えたはずの青年が、当然のようにすべてを引き受けていた。 ――いや、あれは一人の人間の選択だった。  春草は、かすかに唇の端を歪めた。 「……そういうところが……面倒なんだよ、お前は」  呆れ、少し笑って、でもその声は、どこかにほんのわずかな愛しさを滲ませていた。  自身と存在そのものが違う柊が、無理に術式の核を握り取ったことで、春草は凍結の対象からも弾かれ、完全だった術式にズレが生まれた。  柊は領域の物理的運動の制御を一時的に失い、かつての国は重力のまま、下界へと堕ちたのだった。  春草は領域の境界線から一歩外へ放り出され、下界の森に横たわっている。  まだ生きながらえていることに小さく苦笑した。  彼の傍らに立つ影が、興味深げな微笑を浮かべて静かな拍手を送った。 「いやあ、壮大な自殺だったね。美しいよ」  春草は苦痛に顔をしかめながらも、視線を向けた。  色素の薄い茶髪に、櫨染色の瞳を持つ男――見覚えがある。  漆黒の衣を纏い、異様な微笑みをたたえるその男が、森の縁に立っていた。 「我々短命種にとって、あの領域は擬似的な『死』に限りなく近い。出るという行為は、すなわち『死から生への逆流』に他ならない」  薄く笑う者の声音は、どこか異質だった。  その目には、憎悪も、警戒もない。  領域の向こうを遠巻きに眺める目は静かで、穏やかな皮肉を宿している。 「時間の奔流に耐えられぬ短命種は、即座に風化し、白骨となる――。ああ、見事な牢獄だ」  春草は苦痛に顔を歪めながらも、その声の主を強く睨みつける。 「……何故……生きている……」  黄晶宮の使節――否、短命種の術士は肩をすくめ、わざとらしく困ったように息を吐く。 「君のように膨大な力を持つわけでもない。ただ、ちょっとしたまやかしが得意なのさ」  春草の顔に、悔しさと憎悪がにじみ出る。  身体を無理やり動かそうとするが、もはや指一本動かせない。  春草の苛立ちを読み取った術士が、唇の端を冷たく吊り上げた。 「柊に……手をだすな……!」  声は掠れていたが、その眼差しは凍るように鋭かった。  だが、術士はどこか愉快そうに笑い、否定の動きを見せた。 「|柊《あれ》ではない。欲しいのは君の方だよ」  春草のまぶたが微かに揺れた。 「なあ、白鞘の術士殿。君は不思議に思わなかったのか?」 ――そもそも彼らは、『国罪』に縛られぬ圧倒的な利点を持ちながら、なぜわざわざ偽りの使節となって現れたのか。  春草の胸に、底知れない違和感と確信が静かに広がっていく。  この茶番はすべて、|私《・》|を《・》|見《・》|つ《・》|け《・》|る《・》|た《・》|め《・》のものだったのだ、と。 「……最悪だ……」  春草は低く呟き、苦々しく舌打ちをした。  術士が愉悦を含んだ笑みを浮かべ、芝居がかった仕草で両手を広げる。 「いいね。君は実に理解が早くて助かるよ」  ゆったりとした口調の中に、冷たく澄んだ悪意が滲んでいた。 「――それにしても、本当にいいものを見させてもらった。君も、あの誇り高き皇女殿下も、哀れな青年も……|実《・》|に《・》|滑《・》|稽《・》|で《・》|、《・》|最《・》|高《・》|の《・》|結《・》|末《・》だった」  その言葉が春草の鼓膜を鋭く刺す。掌がわずかに震え、指先が硬直した。  術士は愉快そうに唇を歪め、わざとらしく溜息をつく。 「柊。君が名を与え、“人として生きろ”と願ったあの青年か――」  春草の眉がほんのわずかに動いた。それを見逃さず、術士はわざとらしく息をついた。 「君のくせに、ずいぶんと刺さる名を選んだ。まるで、その祈りが拒まれる未来を最初から知っていたかのようだ」  春草は無言のまま、視線を逸らした。  掌の中に、かつてあの青年が流した熱い血の感触がよみがえる。 「――君は誇りを選び、覚悟を語り、あの子に名を与えた。  ……でも、それは全部、自分の理想に酔ってただけだろう? 死ぬための旗印を、自分の手でわざわざ掲げて、満足してたんだよ。見苦しいくらいに」  春草が動揺するのを見て取り、術士の口元がさらに緩んだ。  それでも、術士は語るのをやめなかった。 「それから皇女殿下だ。美しく、崇高で、聡明で――そして致命的に凡庸だった。『皆のために』と舞台に立ち、『誇りのために』と死を選ぶ。君が物語のヒロインとして描くにしては、あまりに予定調和すぎる」  言葉のひとつひとつが、重さを持って打ちつけてくる。  否定したかった。だが否定すれば、きっとその時点で『物語』に縋っていた己を証明してしまう気がして、喉が固まった。  術士は満足げに腕を組み直し、春草を見下ろした。 「だから私は、君の物語をこう名付けているんだ――“様式美の墓標”だと。  君の柊も、皇女も、みんな君の理想を体現するための記号でしかない。  それを酔って、崇めて、自己満足の劇をやりきっただけだろう?」  視界の端で、風が揺れた。  砂埃と共に彼らの姿が蘇る。  名を呼んだときの柊の顔。  その青年が、必死に何かを伝えようとしたときの瞳。  誰よりも、失われることを恐れながら、  民のために失うことを選択した皇女の覚悟。 ――違う。記号じゃない。  私は……あの瞬間、本当に……  術士の軽い笑いが漏れる。春草の全てを嗤うような冷たい響きだった。   「君が信じる“誇り”も、“覚悟”も、僕には無意味だ。  だって世界とは、常に滑稽さに回収される劇場なのだから」 「――君みたいに、世界を信じる顔をして、劇場の真ん中で踊り続けられるやつこそ、  もっとも滑稽で、もっとも美しい」  言葉が、悪意ある精密さで春草の信念を解体する。  春草の胸の奥で、静かな痛みが軋むように広がった。  それは怒りでも悲しみでもない。  ただ、ひとつの祈りが、誰にも知られずに打ち捨てられたという事実だけが、  静かに、確かに、彼を切り裂いていた。 「命を懸けて築いた理想が、君自身の手で茶番に堕ちた――それが最高の皮肉さ」  その言葉に、春草はふと、笑った。声にはならなかったが。  喉の奥に、小さな火の粉が残ったまま、静かに燃えていた。 ――それでも私は、柊に、託した。  そして、あの者は応えた。名を受け取り、歩み出した。  たとえその先が、劇場だと笑われようとも。 「――私は裏切った。自分の理をな」  その声音は静謐で掠れていたが、鈍く研ぎ澄まされた怒りが透けて見えた。 「だが、この世にそれ以上の罪があるとしたら――」  ゆらりと、春草が顔を上げる。その視線には怯えも混乱もなかった。 「――それは、あの子らの名を穢すことだ」  ただ静かに滾る、冷えた炎のような怒りだけが満ちていた。       「彼らが何を遺したかも知らずに、笑うな。    何を見たのかも分からずに、語るな。    ……その名を口にする資格は、お前にはない」      一瞬の沈黙。  春草が手を払った瞬間、空気が、わずかに軋んだ。  耳鳴り。時間の層が薄く剥がれ落ちるような気配。  自身の内側と外側の境界が、ぼやけていくのを感じた。  言葉を紡ぐのもやっとだった身体が、動く。  何かが壊れたのだと、確かに分かった。  だが構わなかった。  掌から放たれた細く淡い符が、まるで霞のように術士の喉元に吸い込まれ、その肉体と魂に直接絡みつく。  術士の瞳から笑みが消え、驚愕に見開かれる。 「――何をした……?」  春草は笑った。  それは、静かな狂気を孕んだ笑みだった。  足元から放たれる圧倒的な気配が、術士の息を詰まらせる。  春草は、“人”という枠組みを逸脱していた。  そこにあるのは、冷たく澄んだ執念の化身。  おかしいほどに、意識は澄んでいる。  壊れながら、なお明晰であることが、何よりの地獄だった。 ――これが“天罪”か。  ああ、そうだった。これが、私の祈りだった。  願いなどという上等なものではない。ただの呪いだ。  そのはずだった。だというのに ――なぜ、こんなにも愛おしい。 「ッ……天罪の……化け物め……!」  苦痛に呻く術士に、春草は淡々と問いかける。 「なあ、下界には“輪廻転生”というものがあるらしいな?」  答えを待たずに、冷たく笑う。 「いい仕組みだ。死んでも、また会えるのだから――」  囁きは、凍えるような静けさで染み入る。  春草は狂気を滲ませ、鮮やかなほど冷えきった瞳を術士に据えた。 「次は虫かもしれん。獣かもしれん。あるいは花か、石か……。だが構わん。必ず見つけて殺す」  言葉には、一切の慈悲がなかった。  何千年という時間を、記憶を、誰にも知られぬまま陰で支え続けてきた男の――圧倒的な、矜持。  血も鼓動も持たぬ身に残るは、ただ一つ、終わりを許さぬ祈念の執着。 「何度でも」  その言葉に込められた狂おしいほどの怨嗟が、彼の足元から世界を覆い尽くすように溢れ出す。  術士の瞳から光が抜け、身体が崩れ落ちる。その瞬間さえも、春草の目は見届けていた。  血に濡れ、理を超え、祈りと狂気に身を捧げた男の静かな吐息が、かすかに響く。 「――何度だって殺してやる」  狂ってなどいない。  それが、“私”という罪だった。