Loading...

烏有辿行 宮階

第二十八話 記憶の名残

 目を覚ますと、指先に違和感があった。    天井をぼんやりと見つめたまま、ゆっくりと手を持ち上げる。細いコードが一本、指の先から伸びていた。よく見ると、小さなクリップのようなものが人差し指に挟まっている。透明なチューブのようにも見えるが、実際には固く、軽い。  試しに指を少し動かしてみる。機械は何の反応も示さない。ただ、コードの先につながったモニターの画面が、静かに数字を刻み続けている。「98」という数字が周期的に明滅し、その横には脈拍を示す波形が小さく揺れていた。      病室の窓の外には、ビル群の隙間から覗く青空が広がっていた。遠くでは自動車のクラクションや救急車のサイレンがかすかに響いている。壁際には無機質な白いカーテンがかかり、ベッドサイドのモニターが一定のリズムで脈を刻んでいた。  室内には二つのベッドが並んでいる。奥のベッドには別の患者が寝ているようで、静寂に満ちた病室に規則正しい寝息が微かに聴こえる。  点滴スタンドには静脈へと続く透明なチューブがぶら下がっている。壁のパネルにはナースコールのボタンと酸素供給の設備。病院特有のわずかに消毒液の香る領域は、清潔でありながらもどこか無機質だった。      扉の向こうから足音が近づいてくる。  それに混じって、小さな話し声や電子機器の操作音が聞こえた。ナースステーションから指示を受ける看護師の声、車椅子が床を滑る音、誰かが電子カルテ端末を操作する微かなタッチ音。  静かな病棟の空気が、一瞬だけ賑やかになる。    扉が開くと、騒がしさはふっと薄れ、静寂が戻る。  白衣をまとった医師が一歩、病室に足を踏み入れる。  静かな足音が廊下に滲むたび、白衣の裾が淡く揺れた。 「起きた?――うん。寝起きで目が死んでるのに、美形は得だねぇ」    穏やかな声が部屋の静寂を破る。  低くはないが、決して強くもない、心地よい響き。    胸元のネームプレートには端正な字で『白鞘』と刻まれている。  ベッドに目を向けた彼女の瞳は、患者の表情の奥まで探るようだった。長い指がカルテを繰り、軽く顎を引いて考える仕草を見せる。   「さて」    二人部屋の静けさが、彼女の声をより際立たせた。   「ちょっとここでサボっていい?」    彼女はそう言い残しながら、病室の白い床を横切って、柊のベッド脇の椅子に静かに腰を下ろす。  足を組むでもなく、背をもたれるでもなく、ただそこに居るという、居心地の良さを知っている人間のような仕草だった。    白衣のポケットから取り出されたのは、小さなペットボトルが二本。片方の蓋を開け、柊に差し出す。   「ほい、これ。地上の飲み物」    柊は訝しげにその手元を見つめ、ペットボトルを受け取った。  内側で淡い琥珀色の液体が、まだほんのりと湯気を立てていた。  彼の指先がその温もりに触れたとき、瞼が震えた。  覗き込むように容器を眺めながら、柊は小さく首を傾げる。  彼女はその様子を見て、声を立てずに笑った。   「安心して、毒じゃない。“ほうじ茶”っていうの」    柊は何も言わなかった。  ただ、その液体の奥に、何かを探るように目を凝らしていた。  それは香りでも、味でもない、“名前”の向こう側にある、記憶のようなものを辿る仕草だった。  彼女はペットボトルをもう一本手に取って、自分もぐいと飲む。  病室は、白く、静かだった。  壁の時計の秒針が、小さな音を刻みながら進んでゆく。  その時間だけが、彼のまわりで、たしかに動いていた。 「――言葉、通じてるよね?」 「……ああ」 「初めまして。……だけど、そう言わなきゃいけないのが、なんか惜しい気がするねえ。……どうも、今は白鞘璃光と名乗ってるよ」 「あなたは……春草の親戚なのか?」  僅かな沈黙のあと、面白がるような声が返ってきた。 「ああ、兄貴ね。あんたの知ってるような男かはわかんないや。もう何千年も会ってない」    軽やかに言いながら、彼女は指をひと振りしてみせる。その仕草すら気楽なもので、何の緊張感もない。 「ところで、あんたの名前、柊で合ってるんだよね?」  どこか芝居がかった声音。楽しげな語り口。 「名字は……ないんだよね? ま、こっちじゃ必要だから――“白鞘柊”ってことで。そっちのお嬢さんにも伝えといて」    ふと、視線を横にやると、ベッドの柵の近くに小さなプレートが取り付けられているのが目に入った。白地に黒い文字で、簡潔に記されている。  白鞘の名字と、今いるベッドの番号だった。 「ほら、これで君たちはめでたくあたしの親戚ってわけ」  にっこりと笑い、まるで軽口を叩くような調子で付け加える。   「ありゃ、不服かな」   「…………あの男の親戚ということだろう?」    柊の返しに、璃光は肩をすくめた。 「あー……気持ちはわかるけどこっちで“関係者”ってことにしておかないと、ね? 下界も案外うるさいんだよ」  しばし沈黙が落ちる。窓の外から、早朝の光が淡く射し込んでいた。 「君は、ほんと変わってるね」  柊の長く流れる髪を眺めながら、璃光は独りごとのように言った。 「長命の体質で、でも天罪も国罪もなくて、生き延びてる。術式を維持してるのに、壊れもしない」     「……完全じゃなかった。落とした」 「ああ、あれね。誤魔化すの超大変だった」  璃光は明るく言いながらも、その口調の端にわずかな疲れがあった。   「結界、張っといて。ああいうの好きな人、うっかり入りそうだし」 「わかった」    柊の答えに、璃光はふっと笑った。    「ほんと素直だな、君は。バカ兄貴とは大違い」      しばし沈黙が落ちた。  柊は、ふと思いついたように口を開いた。 「……ひとりで、下界に?」 「うん。まあまあ平和だよ。地上って案外、死ににくい」  璃光はそう言って、肩をすくめた。 「誰かを殺す必要もないし。あたし、そういう生き方、選んでないしね」 「医者ってのはね、生かすのが仕事。敵は菌とか、制度とか、風評とか……まあ、夜勤とかさ」  彼女は笑いながら言い、手をひらひらと振った。  柊はしばらく黙っていた。  その目が、璃光の言葉の奥を探るように細められる。 「……術も、力も、必要ないのか」 「まったくゼロってわけじゃないけど」  璃光は窓の外に目をやる。 「でも、たいていのことは言葉でなんとかなる。処方箋ひとつで、人は救えるしね。……それは言い過ぎか」  朝の光が、ビル群のすき間から差し込んでいた。  遠く、車の音が混じる。鳥の声も。命の気配が、ごく自然にそこにあった。 「……そうか」  柊の声は、低く落ち着いていた。 「ここは……生きていける場所なんだな」  何かを確かめるように。あるいは、ようやく認めてしまうように。 「――あなたは、兄の選択を、過剰だったかと思うか?」  璃光は、すぐには答えなかった。  けれど、微笑んでもいなかった。 「平和に見えるこの世界でもね、死にはしないけど、死なせてくれないことはある」 「私は長命種であることを隠して生きてる。名前も姿も変えて、逃げるように居場所を探してる」 「……バレたら最後、きっと人体実験コースだよ。いまだにね」  柊は黙ったまま、璃光の横顔を見つめていた。  彼女の瞳は、曇りのない空のもっと遠くを探るようだった。 「それにね、天罪からも逃げ切れたわけじゃない。……化け物になる前に、緩やかな自殺でも計画しないとねえ」  璃光はわざと軽やかに肩をすくめてみせる。  だがその声色には、隠しきれない寂しさが微かに滲んでいた。 「……まあ、でも結局ほら」  彼女は少し間を置いて、静かに息を吐いた。 「誰ひとり、同じかたちじゃないけど。みんな、それぞれ違うやり方で生き延びてる。君も、私も――あの子だってね」  柊が目を伏せる。  病室の壁の時計が、静かな秒針の音を刻む。 「過剰だったか、か。……そう言う人もいるだろうね。きっと本人だって、今なら自分を笑うかもしれない」  璃光は言葉を切り、淡く目を細めた。 「でもさ、誰かが命を張ったから今がある。それを『やりすぎ』なんて軽く言えるほど、私は傲慢じゃないよ」  言葉は淡々としていたが、柊にはそこに込められた静かな熱が感じ取れた。 「まあ……帰ってきたら、一発ぐらいは殴ってやるつもりだけどね。言いたいことも山ほどあるし」  窓の外の光は柔らかく、病室の空気を満たしている。  その光の中で璃光はふっと微笑んで、視線を空の向こうに泳がせた。       「いったいどこにいるんだか――」