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烏有辿行 宮階

第二十九話 そして、君は

 その旋律は、音にもならないほどの囁きだった。  ほんの小さく――唇が動く。  知っている。  知るはずのない、その歌を。  唄い終えたあと、彼女はふと、自分の指先を見つめていた。  それが何の歌なのか、彼女自身は分かっていない。  記憶のどこにも、その詞は存在しない。 「……いまの……なにかしら」  彼女はぽつりとつぶやく。  ◇  窓際のベッドに座る女が、ゆっくりと身体を起こした。  肌は青白く、目元にまだ眠気の影を残している。けれど、その瞳だけは不思議な光を湛えていた。  まるで何か、とても大切な夢を見ていたあと、目を覚ました人のように。  そして、向かいのベッドに座る青年へと、そっと視線を向ける。 「……あなた、名前は?」  問いは柔らかく、けれど芯のある声だった。  青年はわずかに目を細めた。  白銀の髪が静かに肩にかかっていた。  その姿はこの世界のどこにも属していないようで、まるで外側からここに来た者のようだった。 「……柊」  名を口にしたあと、青年――柊は、ほんの少しだけ視線を逸らした。  それが、長い時間の底から掘り起こされた記憶であるかのように。  女は微笑んだ。どこか懐かしむように、そっと頷く。 「とても素敵な名前ね……ええ、とても」  胸元をそっと撫でる。その仕草は無意識のもののようで、まるでそこに何かを思い出そうとするかのようだった。 「私の大切な人が、その木が好きだって教えてくれたことがあるの」  声が、かすかに震えた。 「大切なはずなのに……顔も、名前も思い出せないの。でも……」  言葉の途中、女の指先が布をつかんだ。  そこに記憶があるわけではないと知りながら、それでも何かを掴みたくて。 「庭の柊と、夜空の星を愛する人だったわ」  その言葉に、柊は小さく瞬きをした。  記憶に焼きついた幾千の出来事のなかで、その描写が――ただ一人の人物を指していることを、彼は痛いほど知っていた。  沈黙のなかで、彼女はもう一度、問いを重ねる。 「聞いてもいい?」 「私の名前は……なんだったのかしら?」  沈黙が落ちた。  柊は答えなかった。答えられなかった。  彼女の名を、聞いたことがなかった。 「あなたの名は、分からない」  彼の声は掠れていた。 「あなたは……高貴な身分だった。僕のような者が、知るはずもない」  女は瞳を伏せた。  ひとつ、静かに笑う。  それは哀しみと、それでもそこに光を探す者の笑みだった。 「それじゃあ……あなたが新しい名前をつけてくれるかしら」 「名前がないと、ちょっと、不便だもの」  外の景色――ビルの谷間に、手入れの行き届いた小さな庭が見えた。  そこに、冬の名残のように、白い柊の葉がひっそりと揺れていた。  窓の外、風の底には、まだ白い気配が眠っている。  ひとひらの雪が、どこかで融けきらずに残っているような、そんな錯覚。  誰の記憶にも留まらないほど淡く、けれど確かに存在した冬の名残。  柊は、立ち上がった。窓辺に寄り、光の中で振り返る。 「……なら」  その声は、どこか深い湖の底からすくいあげたような静けさを含んでいた。 「――あなたの名は、白雪」  女は一瞬、まばたきをした。  その目に、かすかに涙が滲んでいた。  それは、かつて降りつもり、誰かの心を覆い、やがて融けて流れていった、白の名残。  けれど彼女は、確かにそこに在る。  何も覚えていなくとも。  もう一度この世界に、ふわりと舞い降りた雪のように。                      (了)