その旋律は、音にもならないほどの囁きだった。 ほんの小さく――唇が動く。 知っている。 知るはずのない、その歌を。 唄い終えたあと、彼女はふと、自分の指先を見つめていた。 それが何の歌なのか、彼女自身は分かっていない。 記憶のどこにも、その詞は存在しない。 「……いまの……なにかしら」 彼女はぽつりとつぶやく。 ◇ 窓際のベッドに座る女が、ゆっくりと身体を起こした。 肌は青白く、目元にまだ眠気の影を残している。けれど、その瞳だけは不思議な光を湛えていた。 まるで何か、とても大切な夢を見ていたあと、目を覚ました人のように。 そして、向かいのベッドに座る青年へと、そっと視線を向ける。 「……あなた、名前は?」 問いは柔らかく、けれど芯のある声だった。 青年はわずかに目を細めた。 白銀の髪が静かに肩にかかっていた。 その姿はこの世界のどこにも属していないようで、まるで外側からここに来た者のようだった。 「……柊」 名を口にしたあと、青年――柊は、ほんの少しだけ視線を逸らした。 それが、長い時間の底から掘り起こされた記憶であるかのように。 女は微笑んだ。どこか懐かしむように、そっと頷く。 「とても素敵な名前ね……ええ、とても」 胸元をそっと撫でる。その仕草は無意識のもののようで、まるでそこに何かを思い出そうとするかのようだった。 「私の大切な人が、その木が好きだって教えてくれたことがあるの」 声が、かすかに震えた。 「大切なはずなのに……顔も、名前も思い出せないの。でも……」 言葉の途中、女の指先が布をつかんだ。 そこに記憶があるわけではないと知りながら、それでも何かを掴みたくて。 「庭の柊と、夜空の星を愛する人だったわ」 その言葉に、柊は小さく瞬きをした。 記憶に焼きついた幾千の出来事のなかで、その描写が――ただ一人の人物を指していることを、彼は痛いほど知っていた。 沈黙のなかで、彼女はもう一度、問いを重ねる。 「聞いてもいい?」 「私の名前は……なんだったのかしら?」 沈黙が落ちた。 柊は答えなかった。答えられなかった。 彼女の名を、聞いたことがなかった。 「あなたの名は、分からない」 彼の声は掠れていた。 「あなたは……高貴な身分だった。僕のような者が、知るはずもない」 女は瞳を伏せた。 ひとつ、静かに笑う。 それは哀しみと、それでもそこに光を探す者の笑みだった。 「それじゃあ……あなたが新しい名前をつけてくれるかしら」 「名前がないと、ちょっと、不便だもの」 外の景色――ビルの谷間に、手入れの行き届いた小さな庭が見えた。 そこに、冬の名残のように、白い柊の葉がひっそりと揺れていた。 窓の外、風の底には、まだ白い気配が眠っている。 ひとひらの雪が、どこかで融けきらずに残っているような、そんな錯覚。 誰の記憶にも留まらないほど淡く、けれど確かに存在した冬の名残。 柊は、立ち上がった。窓辺に寄り、光の中で振り返る。 「……なら」 その声は、どこか深い湖の底からすくいあげたような静けさを含んでいた。 「――あなたの名は、白雪」 女は一瞬、まばたきをした。 その目に、かすかに涙が滲んでいた。 それは、かつて降りつもり、誰かの心を覆い、やがて融けて流れていった、白の名残。 けれど彼女は、確かにそこに在る。 何も覚えていなくとも。 もう一度この世界に、ふわりと舞い降りた雪のように。 (了)