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烏有辿行 宮階

間章 それが私の祈りだった

                     間章                  「やっぱり、物語はハッピーエンドじゃなきゃなぁ」    ぽつりと呟いたその声は、夕暮れどきの境内に、ちょっとだけ場違いなくらい軽やかだった。  掃き終えた石畳の上、神社の拝殿前で、飛奈は竹箒を肩に担いだまま空を見上げていた。朱色の鳥居の向こうには、都会のビル群が遠く霞んでいる。けれど彼のまわりには、ほんのりとした静けさと、微かな風鈴の音が流れていた。 「でもさ、どうしてかな。物語の登場人物って、だいたい途中で死ぬんだよね」  肩越しに振り向いた視線の先には、一人の男がいた。  黒の法衣に身を包み、胸元には僧侶らしい袈裟がかかっている。  ただ、足元の雪駄の鼻緒は少し擦り切れていて、裾はどこか無造作にまくれ上がっていた。  見慣れた装束の中に、春草らしい“隙”があった  吉隠春草――飛奈にとっては、もう何年も前からの“友人”だ。  冗談ばかり言う癖に、誰よりも真面目で、笑っているくせに、どこか寂しそうで。  今日もまた、春草は笑っていた。 「現実ってやつが、あまりにも退屈だからじゃないかな。誰かが命を懸けないと、物語は始まらない」  春草はひとつ息を吐いた。  まるでそれが、この世界に馴染むために必要な呼吸かのように。 「そんなに、退屈なものかなぁ」  飛奈はそう言って、竹箒をそっと壁に立てかけ、春草の隣に座った。  彼は空を見上げる。ちょうどそのとき、鳥が一羽、境内を横切っていった。  羽音が静かに風に溶ける。 「命を賭けて何かを守る話ってさ、綺麗だけど――なんか、もう疲れちゃうんだよね。  それよりさ、誰も死なずに笑ってる話の方が、俺は好きだな」      春草の瞳が、一瞬陰ったように見えた。     「――……本当に、皮肉だね」      春草は笑った。  けれど、笑った理由はわからなかった。  それを問い返す勇気を、飛奈は持っていなかった。 「……柊さんの小説って、ちょっと悲劇的なんだよなぁ」  飛奈が話すと、ふと春草が表情を動かした。 「……柊?」  飛奈はうなずいた。 「そう、最近知り合ったんだ」 「小説家でさ。ちょっと浮世離れした感じの」  一瞬、春草の視線が遠くを見たような気がした。  けれどすぐに彼は軽い笑みを取り戻す。 「ふうん、そうか。会ったんだね――君が」  その声が、いつもとわずかに違う気がした。  飛奈は小さく眉をひそめたが、あえてその理由を尋ねなかった。  春草の目が再び自分を見る。その目はもう、いつも通りの穏やかな色に戻っていた。 「人間の縁って不思議だよね。どんなふうに繋がって、どこで切れるのか……あるいは、いつかどちらかが死ぬまで続くのか」  春草がふと呟く。どこか遠くを眺めるような、深い静けさを含んだ声だった。  その言葉を聞いて、飛奈は悪戯っぽく笑った。   「あのさ」 「ん?」  春草が軽く首を傾げる。その表情はいつも通り、柔らかで軽やかだった。 「俺たちの縁もずっと繋がってたらいいよね――なんて……」  春草は、笑っている。目を細めて、いつも通りの、あの軽やかな笑みだった。 「……ふふ、何言ってるんだい、飛奈くん」          声色も変わらない。ただ、言葉だけが静かに滲んでいく。  柔らかく、どこまでも静かに。まるで、染み込む毒のように。     「ずっと、逃さないよ」      一瞬、胸の奥に冷たい手を差し込まれたような感覚があった。  だが理由は分からなかった。     「君の最期も、その先も、誰の手にも渡さない」      飛奈が小さく眉をひそめた。  春草は微笑みを保ったまま、ゆっくりとその右手を飛奈の頬に伸ばした。     「息をするのも、笑うのも、泣くのも、君のぜんぶが僕のためでいい。君が死ぬなら、僕の腕の中だけで許してあげる」      指先は、ひどく冷たかった。  なのに、そこに込められた熱量だけが途方もなく、熱い。     「君が壊れるときは、君の中の何もかもが、ちゃんと僕の目の前で崩れ落ちるようにしてあげる」 「……そう、また、|あ《・》|の《・》|時《・》みたいに」      春草は、かすれるような声で囁いた。     「ねえ、飛奈くん。そうじゃないと―――意味がないじゃないか」    その声音に、怒気はなかった。恨みもなかった。  あるのは、ただ望みだった。  絶望も、償いも、救済さえも——  その瞬間だけは、必ず自分の手の中にあるように。  それが、彼の祈りの形だった。  それでも飛奈は、口の端を少しだけ持ち上げた。  笑おうとしたのだ。怖さをごまかすために――あるいは、自分を信じるために。  その時だけ、春草の目は笑っていなかった。